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1007. 認識と行動を変える哲学


今朝はまず最初に、ジル・ドゥルーズの“Difference and Repetition (1968)”を一章ほど読み進めた。残すところあと三章となった。

本書は英訳においても難解な箇所が多々あるのだが、日本語訳はどのような文章になっているのか気になるところである。翻訳というのは、やはり非常に難しい作業だ。

私はできるだけ翻訳書を読まないようにしているが、原著がドイツ語やフランス語の場合、どうしても英訳に頼らざるをえない。翻訳書は、ほぼ全ての場合において、著者がその書籍に込めた実存性を削ぎ落としていまい、代わりに翻訳書の実存性がその中に混入することになる。

また、翻訳書からは、著者が執筆という作業を通じて内側のものを外側に形としたエネルギーも削ぎ落とされてしまっているように思う。しかし、翻訳書に関して面白い点は、時に原著よりも内容が明瞭である場合があるということだ。

もしかすると、それは原著の次元を落とすことによる副産物かもしれないが、時に原著以上に翻訳書の内容が明確である場合もありうる。そのようなことを思いながら、本書を読み進めていた。

ある箇所に行き着いた時、私は文章を追いかける目をそこで止めた。最近頻繁に考えていたことを、これまでの私の認識世界にはないような言葉で言い換えてくれるような文章に出会ったのだ。

私たちは時に、ある対象について考えることを余儀なくさせられることが多々ある。これは考えるということのみならず、内側のものを外側に形として表現する場合でも同じである。

つまり、この世界の何かが私たちに表現を余儀なくさせることがあるのだ。この何かについて、以前から私は強い関心を寄せていた。

こうした関心もまた、何かが私にそうさせるのだ。それが気になるという状態が長く続いていた。

ソクラテスは、私たちがある対象について考えることを否応なしに強制するような働き、あるいは内側のものを外側に表現せざるをえないような現象を生み出す働きを「魔神との出会い」とみなした。結局それは、何らかの認識対象が私たちにそうした働きかけをしているのではなく、認識対象が生まれる以前の、より根本的な何かとの出会いがそうさせるのだ。

このような趣旨の文章に行き着いた時、私の中でまた少し何かが動いたような気がした。もちろん、根本的な何かが一体どのようなものなのかということに対する疑問は残り続けているが、その疑問に新たな光が差し込んだのは間違いなかった。

それをもたらしたのは、これまでの私にない新たな言葉だった。新たな言葉や概念は、私たちの認識を変えていく力を持っている。

認識を変え、何かに迫っていくためには、やはり新たな言葉や概念が不可欠なのだと改めて知る。そして、対象の本質に迫っていく過程で、自分の認識のみならず、自分の行動までもが変化するという現象は注目に値する。

内面と外面、つまり認識と行動は相互的な作用を与え合っている。対象の深みに向かっていくためには、認識と行動の双方を変容させていくことが不可欠だが、認識を変えるためには行動を変える必要があり、行動を変えるためには認識を変える必要がある。

ここ最近哲学に触れながら思うのは、それは認識と行動の双方を変える力があるということだ。2017/4/29

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