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979. 自己としてのベートーヴェン


数日前の金曜日と土曜日は、一日中ベートーヴェンのピアノソナタを聴いていた。昨日はモーツァルトのピアノソナタを聴いていたのだが、結局今日もベートーヴェンのピアノソナタを聴きたくなる自分がいた。

実際には、起床直後にSpotifyを立ち上げた後、ドビュッシーのピアノ曲を一時間ほど聴いていた。しかしながら、その時の私には、自分の内側の感覚がドビュッシーの曲と足並みを揃えて進行していくような気がしなかった。

結局、ベートーヴェンのピアノソナタに戻ってくる自分がいたのだ。もちろん、ベートーヴェンのピアノソナタも全部で32曲あるため、それらの全てがその瞬間の自分の感覚と完全に合致するわけでは当然ない。

だが、一つ言えることは、それら全ての曲を一つの音楽体系だとみなせば、32曲のピアノ曲が生み出す全体感としての一つの体系は、現在の私の内側の感覚といついかなる時も完全に合致しているという感覚がある。

これまでは作曲家としてのベートーヴェンを他者として捉えていたが、ウィーンでベートーヴェンの記念館を訪れて以降、もはやベートーヴェンが他人ではなくなった。ベートーヴェンが遺書を書き残した「ハイリゲンシュタットの遺書の家」の中庭で体験した、あの不可解でもあり不思議な体験以降、ベートーヴェンがもはや他者ではなく、自己と同一の存在であるとみなすようになっているのだ。

そうしたこともあり、知らず知らずベートーヴェンの曲に自分が引き込まれていくのだろう。これからしばらくは、ベートーヴェンを中心に曲を聴いていきたいと思う。

もちろんこれは、他の作曲家の曲を全く聴かないということを意味しない。しかし、私がベートーヴェンの曲をより深く理解するためには、彼の曲に絞って聴くという意思が必要なのだ。

私たちは、自分の声を意識して聞かなければ、自分の声が何たるかを知ることはできない。それは外側の声に当てはまるだけではなく、内側の声にも当てはまる。

私たちは、自分たちの声を注意深く聞かなければ、それが私たちに訴えかける本当の意味を聞き取ることなどできないのだ。今の私にとって、ベートーヴェンがもはや他者ではなく、自己と合致する存在になったのであれば、なおさら彼が残した曲を注意深く聴いていく必要があるだろう。

なぜなら、ベートーヴェンの音楽は自分の声に等しいからだ。ベートーヴェンの音楽を注意深く聴くことによって、私は自分の新たな声を発見できるような気がしてならない。2017/4/24

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