top of page

935. 内側のさざ波と静かな音


全ての事柄が、「これで良いのだ」という思いの流れの中で進行していく。ウィーンとザルツブルグを訪れて以降、全ての事柄が流れていく進行を静かに見守っている自分がいる。

これは、形而上学に関する中途半端な知識から生み出された、「全てをありのままに受け止める」という偽言や「流れの中に身を委ねる」という戯言ではなく、全てを崩壊させた後に訪れる再建の時を待つ感覚に等しいと言えるかもしれない。

全ての事柄を破壊し尽くし、全てのものを焼き払った後に訪れるような、新たな開始を待つ静けさの中に今の私はいるような気がする。ウィーンとザルツブルグに足を運び、そこで様々なものを五感を通じて体験したことは、間違いなく私に大きな影響を与えていた。

最近思うのは、自己に及ぼす変容作用が大きければ大きいほど、それは静かなのだ。思うに、一つの体験が真に自己変容を及ぼす時、それは派手な交響曲のように自己に響き渡るのではなく、小さな音を鳴らすピアノ曲のように自己の内側で響くのだろう。

とても小さな連続的なさざ波が、私の内側で絶えず寄せては返す運動を行っているのがわかる。真に自己変容をもたらすのは、一度限りの大きな波というよりも、小さな連続的な波の絶え間ない運動だと思うのだ。

ウィーンとザルツブルグに訪れている最中、そしてフローニンゲンに戻ってきて以降、これまで見落としていた内側の小さな波が絶えず運動を続けているのがわかる。なぜこれまで、こうした小さな波の運動に自分は気づかなかったのだろうか、と思わざるをえない。

それは明々白々とした内側の波である。今この瞬間において、太平洋や大西洋のどこかの海岸で、波が動いているのと同じぐらい自明なことである。

太平洋や大西洋の波について言及するまで、それらが今この瞬間において常に運動を続けていることを意識できなかったのと同じように、内側の波も私たちの意識を超えたところで常に動き続けているのだ。それは、発達の波と形容していいようなものである。

ウィーンとザルツブルグに訪れて以降、自分の内側で静けさを感じるのは、その旅のどこかで私が創造を司る津波のような大きな流れに飲み込まれたことと関係しているかもしれない。それは確かに一時的な大きな波であることに間違い無いが、その体験に囚われては決してならない。

大きな津波によって、自己を取り巻く様々な不純物が打ち壊されたような感覚がある。それが冒頭で述べていたような思いに繋がっているのだろう。

外側に聞こえるのは、書斎の中で静かに鳴り響く音楽と窓の外の小鳥の鳴き声や時折走る車の音である。そして、内側に聞こえるのは、自分の本当の声だけである。2017/4/13

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page