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920.【ザルツブルグ訪問記】アルプス山脈を越え、太陽を超えて


怖いほどに、驚くほどに、奇妙なほどに内側から言葉が出てこない。ザルツブルグでの非線形ダイナミクスに関する国際会議が先ほど終了した。

三日間に及ぶ学会を通じて、研究分野やテーマは異なれど、非線形ダイナミクスに関して志を同じくする多くの研究者と知り合うことができた。若い研究者はごく少数であったが、それでも何人かの若手の研究者とも交流することができ、同時に、70歳を超えるような熟練の研究者の方たちとも交流を持つことができた。

やはり科学研究というのは、このような科学者同士の交流によって進展していくのだろうと改めて思った。それにしても、今の私は奇妙なほどに、自分の言葉を生み出すことができない。

それはおそらく、ウィーンの旅から始まる今回の学会において、非常に密度の濃いい経験が自分にぶつかってきたからだろうと思う。学会の最後に、一人の参加者からコメントがあったように、今回の学会での発表内容や発表外でのコミュニケーションから得られたものを咀嚼するには、随分と時間がかかるという予感がしている。

自分の言葉が出てこないほどに経験が堆積するというのは、滅多に出くわす出来事ではない。私の研究をさらに先に推し進めてくれるような数多くの観点、概念、理論、方法と遭遇したのは間違いない。

だが、重要なことは、そうした経験の表層に浮かぶ事柄ではなく、一人の探究者としてのあり方を含めた、経験の最も根幹に関わるものだと思っている。今回の学会を通じて、私は間違いなく、そうした根幹と接触する機会を得た。

そして、探究者としての根幹に関わるそれが、これから私の中で熟成に向けた歩みを開始するのだろうと予感している。だからこそ、今の私は言葉を失っているのだ。

それが自己の存在の奥深くの事柄と強く結びついているがゆえに、安易に言葉の形として表すことができないのだ。正直なところ、とんでもないものと触れてしまった、という思いで満たされている。

あるいは、とんでもないものが自分の中にこれまで眠っており、ようやくそれが目覚めようとしているという感覚なのだ。様々な意味において、もはや自分は後戻りできないということを知っている。

それに関しては、随分と前に腹を括っていたように思う。ある時から少しずつ感じ始めていたことだが、静寂さの中に全てが宿るというような感覚が自分の内側で大きな位置を占め始めている。

自分が外側の世界における静寂さを求め、内側の静寂さに何かが潜んでいるという感覚は正しいものだったのだ、と今改めて実感する。外側の世界にせよ、内側の世界にせよ、喧騒の種類は多様だ。

だが、外側と内側の世界における静寂さは、一つの究極的なものと繋がりうるという意味で一つだ。静寂さは、一者の世界に参入するための扉である。

もはや私はためらうことなく、この扉を開けたいと思う。向こうの世界にひとたび足を踏み入れると、もはや戻ってこれなくなるかもしれない。

それでも扉を開け、そちらの世界に参入することに腹をくくったのだ。米国での生活を通じて芽生えたこの感覚、そして欧州での生活を通じて開花しつつあるこの感覚に私は従いたい。

あちらの世界を通じてこちらの世界で生きること。それは私が断固として譲ることのできない生き方だ。

学会が終わり、ザルツァハ川を架ける橋を渡りながら、私はそのようなことを考えていた。一昨日や昨日と打って変わり、とても暖かい太陽光がザルツブルグの街を包んでいた。

その優しい温かさを感じながら、私の内側にある熱情は太陽を遥かに凌ぐものであることがわかった。太陽を見上げ、右手に目をやると、雪解けを待つ雄大なアルプル山脈が輝いて見えた。

堂々たる様子でそこにたたずむアルプス山脈を眺めながら、私の内側にある志はアルプル山脈を遥かに凌ぐほどの不動さを持っていることがわかった。

今後、内側の表層部分において小さな迷いが生じたとしても、私の根幹部分にはもはや迷いが生じることは一切ないと言えるだろう。この地球上に雲が生じることはあっても、宇宙上に雲が生じないのと全く同じだ。

あちらの世界を通じてこちらの世界で生きるという明確な意志は、私を根幹から突き動かす、何にも代えがたいものなのだ。2017/4/8

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