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820. 神々が宿る鳴き声と道


窓の外の世界で、様々な小鳥が綺麗な鳴き声を奏でていることに気づいた。私はふと仕事の手を止め、小鳥の鳴き声に耳を澄ませていた。

不思議なことに、それらの小鳥の鳴き声は、書斎に鳴り響くモーツァルトのピアノ曲よりも遥かに美しいように思えた。まさに、それを「神々が宿る鳴き声」と形容してもし過ぎではないだろう。

目の前の木々にとまっている小鳥たちの鳴き声が、こうも美しく、こうも自分の心に響くのはなぜなのかを考えずにはいられなかった。それらの鳴き声は、目の前の通りを走る車の音に簡単に掻き消されてしまうほど小さなものである。

そして、自分の心にゆとりがなければ気づくことさえできない音だと言えるだろう。今私の耳に聞こえて来る小鳥の鳴き声は、そのような特徴を持っているのは確かだ。

しかし、それ以上に大事なものがある。私が小鳥の鳴き声を美しく感じ、自分の心に深く染み渡っていくように感じているのは、他でもなく、小鳥と私が同じ世界をこの瞬間において共有しているからなのではないか、と思ったのだ。

モーツァルトのピアノ曲を凌駕する美しさと心に響くものを感じたのは、そこにいる小鳥たちが、私と同じ時間と場所を共有しながら、目の間に広がるこの瞬間の春の朝を共有しているからだと思ったのだ。私には、小鳥たちが私と同じように春の朝を感じているようにしか思えない。

この鳴き声は、春がやってきたことを祝福するものであり、歓喜の表現であるに違いないのだ。私はしばらく、モーツァルトのピアノ曲をいったん止め、小鳥たちの鳴き声にただただ耳を傾けていた。 小鳥の鳴き声が私の内側に染み渡っていく。同時に、私の内側から湧き上がってくるものがある。内側に入るものと出るもの。

染み渡っていくものと滲み出るものの双方を感じている時、もはやそこに私という存在はいなかった。そこにいたのは、流れ込むものと湧き上がるものを受け入れ、見守る通路のような存在だった。

透明で、純粋で、形のない形を持つ道がそこにあった。これに気づいた時、私は道を歩いているのではなく、本当に道そのものに他ならないのではないかと思ったのだ。

これはとてもおかしな気づきだった。私には間違いなく、肉体と精神が備わっており、それらが私を象徴するものであることに変わりはないだろう。

だが、自分の肉体や精神を超えたものが、自分でありうるということに気づけたことはとても大きなことのように思える。私は生まれてからこの瞬間まで、自分という存在が道であるという真の自覚を持つことはなかったように思う。

この気づきは、道ではない私に付着した諸々のものを打ち壊し、全てを道の中に再構成させるような強い作用を持っていた。道の中に道として生きる日が、徐々に近づいてきていることを知る。 それを促してくれたのは、他でもなく、目の前にいる小鳥たちであった。私の目には、彼らが音楽のソムリエのように映り、その時の季節や感情に合致した音楽を私に届けてくれるように思えた。

いや、小鳥には知識や経験から音楽を選定するような作為は一切なく、純粋に今感じているものを鳴き声として外の世界に表現しているだけだろう。この瞬間に感じているものを表現するというシンプルな行為は、純粋な結晶のようであり、私は小鳥たちが感じているものに共感し、それが具現化された結晶としての鳴き声に心を打たれたのだろう。 窓の外では、まだ小鳥たちが鳴き声を奏でている。彼らは何かを呼んでいるようだ。何を呼んでいるのだろうか。彼らは何かを呼んでいるのではないだろう。

道が私を呼んでいるのと同じように、道が小鳥たちを呼んでいるのだ。だから歌うのだ。2017/3/10

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