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573. 孤島と連絡船:能力開発に対する視点


やはり今の自分は、特殊な環境の中に身を置き、特殊な活動に従事し続けていることに気づく。正直な感覚は、孤島の中での生活に近いと言えるだろうか。このような生活を望んでいた自分が存在していたことは間違いない。

また、このような環境に私を運んでくるような力が自己の背後にあったこともわかる。以前言及したように、どのような環境も固有の力を内包しており、それが私たちの発達を促進することもあれば、阻害することもある。

今私がいる環境は、紛れもなく自分の内面世界の成熟をもたらすものであると思っているが、その環境が持つ特殊性に対して、時に圧倒されることがある。さらには、こうした特殊な環境の中でしか育まれようのない特殊な力を獲得しつつある自分に対して、圧倒されることがあるのだ。

「自分が自分に圧倒される」というのは、一見すると奇妙なことだが、もしかすると、こうした感覚こそが、内側の発達が進行するときの偽らざる感覚なのかもしれない。今、私が生活している環境は、特殊な発達促進力のようなものを兼ね備えているように思う。

しかし、フローニンゲンの街が全ての人の発達を促すような力を持っているとも思えないのだ。この点が非常に不思議である。環境というのは、やはり私たちの内面世界と相互作用をしており、環境が私たちを形作るのと同時に、私たちの内面世界が環境を形作る、というフィードバック関係が存在しているように思う。

今の環境を特殊なものだと認識する私の中に、特殊性の種のようなものがあり、それが環境に働きかけているようなのだ。その結果として、特殊な環境の中で特殊な能力が育まれている、という現象が偶然ながら起きているのだと思う。

こうした様子はさながら、自己の内面世界という生態系の中に、特殊な生物種が発生し、その生物種が日増しに進化しているような光景である。そして、その生物種の進化が生態系に影響を与えるのである。そのような比喩的世界は、まさに今の自分の内面世界とそれを取り巻く環境世界を見事に捉えているように思う。

そのようなことを思いながら、カート・フィッシャーとポール・ヴァン・ギアートが執筆した共著論文 “Dynamic Development of Brain and Behavior (2014)”を読んでいた。知性発達科学におけるこの二大巨頭の論文には、いつも感銘と励ましを受ける。

先日、私の論文アドバイザーであるサスキア・クネン教授は、「あの二人の共著論文はいつも面白い」と述べていたが、私もこの発言には完全に同意する。この論文では、ポール・ヴァン・ギアートが専門とするダイナミックシステム理論を活用したダイナミックネットワークモデルと、フィッシャーが専門とするダイナミックスキル理論が見事な関係を作っている。

特に、領域全般型能力と領域特定型能力をダイナミックネットワークモデルの観点から説明した箇所が非常に参考になった。知性発達科学者の中には、全ての能力領域の根幹になるような領域特定型能力を特定することに心血を注いでる者がいる。

しかし残念ながら、今のところ、そのような能力は発見されていない。過去の候補として、IQのようなものが取り上げられることがあったが、これは実証研究によって早々に却下されている。比較的最近においては、 “g-factor”のようなものも候補に挙がっていたが、これも有力なものではないことがわかっている。

つまり、全ての能力領域を架橋するような基盤的能力は存在しないのだ。ただし、複数の能力領域を架橋する領域特定型能力のようなものは仮設的に存在が認められつつある。例えば、科学的な思考力と数学的な思考力という二つの能力領域を架橋するものとして、例えば「推論能力」のようなものが存在しているかもしれない。

あるいは、言語的思考力を司る複数の領域の間に、「言葉に対する感性」のような能力が存在しているかもしれない。いずれにせよ、これらの領域全般型能力は、領域特定型の能力と結びついており、複数の領域をつなぐものとしての役割を担っているのだ。

こうした説明を裏付けるものとして、能力開発において、ある特定の領域における能力を鍛錬した結果、能力水準は違えど、それが別の能力領域において発揮されることを経験したことがある人も多いだろう。こうしたことが起こり得るのは、複数の個別能力領域をつなぐ領域全般型能力というものが存在しているからである、というのは一つの有力な説明になりうるだろう。

その様子はあたかも、領域特定型能力という独立した孤島をつなぐための「連絡船」として、領域全般型能力が存在しているかのようである。また、言語的思考力に強く依存した哲学の領域で能力を発揮しようと考えた場合に、哲学の知識やその領域固有の思考方法に習熟することなく、言語に対する感性だけを磨いていても、いつまでたっても哲学の領域で能力を発揮することはできないだろう。

つまり、ある個別の能力を涵養したいと思う時には、領域全般型能力だけを磨いていても意味はなく、個別具体的な領域の中で、その領域固有の実践を積む必要があるのだ。こうしたことを無視する場合、その様子はまるで、個別の能力領域という島を育てたいと思っているのに、その島には一歩も足を踏み入れず、島と島をつなぐ連絡船にずっと乗っているようなものである。

フィッシャーとヴァン・ギアートが共著論文の中で何気なく示している図表を見て、そのようなことを思った。知性発達科学を探究してきたこれまでの過程を振り返ってみると、五年前の私は、ケン・ウィルバーやロバート・キーガンしかり、あるいは、日本でも注目を集めているビル・トーバートの発達モデルと触れる中で、意識の発達という現象を、どうも領域全般型能力として捉えているようなところがあった。

しかし、カート・フィッシャーの理論に触れることによって、領域特定型能力と領域全般型能力というものが存在しており、そこから領域特定型能力に焦点を当てることが、ここ数年続いていたのである。そこから最近では、領域特定型能力と領域全般型能力の双方の存在と重要性を認め、それらが動的かつ有機的なネットワーク構造を持っている、と発想するようになってきている。

当該論文の中で触れられていた事例として、自閉症のケースがある。一般的に、自閉的サヴァン症候群の人が、ある個別の能力領域で際立った能力を発揮し、その他の領域では、全く能力を発揮できないケースというのも、上記の考え方で上手く説明できるように思う。

つまり、彼らは、他の能力領域をつなぐ連絡船の役割を果たす領域全般型能力がうまく機能していないか不在であるため、一つの領域特定型能力という島の中で生活をすることを余儀なくされているのだ。その結果として、一つの島で開拓され続けた能力は、一般の人々が想像できないような高度なものになるのである。

このようなことを考えながら、再度自分に引き戻して考えていた。自分が今どのような島や島々で生活をしているのか、それらをつなぐ連絡船とは一体どのようなものかを、引き続き考えていく必要がありそうだ。

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