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571. 存在することの不思議な感覚


早朝の四時から仕事を開始し、気づけば夜が明けていた。少しばかり足元が冷えると思っていたら、外気がマイナス七度であることがわかった。

今日も昨日同様に、雲ひとつない晴れ間が広がっている。外の寒さを問題としていないかのように、小鳥たちが力強く空を舞っている。フローニンゲンの街に昨夜降りた霜が、ストリートを優しく包んでいる。

その様子はまるで、スポンジケーキの上に優しく降りかかっている白いパウダーのようである。このパウダーは、赤いレンガ造りの家の屋根にも降りかかっている。そして、こうしたレンガ造りの家の上に架かっているのが、薄いブルーの雲ひとつない大空である。

そのような景色を書斎から眺めることができる場所に、今の自分は住んでいる。一週間のうち、ほぼ毎日、書斎の中で自分の仕事を行うか、書斎の窓から景色を眺めるか、ということだけを行っている気がする。

つまり、常に自分の内側と向き合うようなことと、内側から離れて外側と向き合うようなことしか行っていないようなのだ。興味深いのは、自分の外側にいくら焦点を当てても、結局のところ、やはり自分の内側に戻っていくのである。

とはいえ、外側の事物の存在を認めないような極端な観念論に陥っているわけではない。なぜなら、外側の事物に触発される形で、自分の内側が動き出しているのは、確かな感覚として感じ取れるからである。

昨夜、「生きていること」に対する不可思議な体験をした。これは以前どこかで言及したように、周期的に自分の内側に訪れる体験である。「生きていること」に対する不可思議な感覚を言い換えるなら、「存在していること」に対する不可思議な感覚と述べていいかもしれない。

私は、この感覚を存在の消失体験と捉えている。自分が自分だと思っている存在が溶解し、ひとつの大きな総体の中に還っていくかのような感覚なのだ。最近になってようやく、自己が自己を超えていくというのは、このような感覚のことを言うのだと思った。

こうした存在の消失体系——あるいは自己超出体験——をするときは決まって、覚醒中の自分が線引きをしている自己の境界線を越えていき、不思議な自己感覚を伴う世界に入っていく。厳密には、そこではもはや自己感覚というものはなく、自分が一つの大きな総体である、という感覚しかないのだ。

この感覚から日常の自己意識に戻った後、ふと、五年前や十年前の自分を思い出すという現象が起こった。内面世界と外面世界の両方において、あの時の自分では想像もつかないような場所に今の自分がいることに対して、可笑しくなってしまった。

このような外面世界の中で、このような内面世界を開拓している自分など、想像しようもないことであった。人間の人生や発達というのは、つくづく想像を遥かに超えた形で展開されるのだと思った。

であるならば、これからの五年や十年というのも、きっと自分の想像を遥かに超えたものになるような予感がしている。ここから再び、午前中の仕事に取り掛かりたいと思う。

昨日のように、これまでのように、変化の只中において自分の仕事や生活を継続させていくことが重要だ。

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