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11385-11396: フローニンゲンからの便り 2023年11月23日(木)



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タイトル一覧

11385. 今朝方の夢

11386. 意識に関する気づき

11387. 新たな世界を開く書物/今朝方の夢の続き

11388. スピノザへの、からの導き/時間と永遠

11389. サイケデリック哲学に不可欠な思弁的実在論と批判的実在論/満月と究極的リアリティ

11390. 唯一の究極的な意識と多様性/神経科学の価値と限界

11391. 脳と意識:テレビとテレビ番組のメタファーの更新

11392. 脳と記憶:テレビとテレビ番組のメタファーより

11393. 脳と意識とサイケデリクス

11394. パーソナルトレーニングの価値とサイケデリックトレーニングのやりがい

11395. 今日のジムでの自主トレーニングの大きな工夫から得られた気づき

11396. 批判的実在論による筋力トレーニング&サイケデリックトレーニングへの発見


11385. 今朝方の夢


時刻は午前4時半を迎えようとしている。今の気温は11度とそれほど低くなく、今日は夕方までは曇りのようで、ちょうどジムから帰ってくる頃ぐらいに小雨が降り始める予報が出ている。ジムに行く際には折り畳み傘を持っていこう。12月を迎えようとしているフローニンゲンは、明日から寒さのフェーズが変わるようである。来週の月曜日からはいよいよ最低気温がマイナスとなり、火曜日からは3日連続で雪マークが付いている。最高気温もいよいよ2度や3度となり、ここからグット寒さが厳しくなりそうだ。

いつものように今朝方の夢について振り返り、朝の呼吸法とアニマルフローを通して体を温めよう。夢の中で私は地元にいた。実家で寛いでいる最中に、あれだけ元気だった父が突然亡くなった。病気や死の予兆は全くなく、ご飯を食べて笑いながら話している最中にいきなり首がカクッと折れて、呼吸を止めて死んでしまったのである。母と私は驚きよりもまず最初に動揺した。いや、最初は状況が全く掴めず、何が起こったのかよくわかっていなかった。母が近寄って確認すると、父が呼吸をしていないことを知り、心臓も止めてしまったことを知った。これまで死に立ち会ったことがなかったので、死の瞬間や死んでしまった状態というものがよくわかっておらず、果たして目の前の父は本当に死んでしまったのかやはり把握できない状態のところで数人の親友が遊びに来た。もちろん遊んでいる場合ではなかったが、遊ぶ約束をしていたのでとりあえず家に上がってもらうことにした。リビングに友人を案内した時に、父はまだ首がカクッと折れた状態のままだったが、親友たちは父が死んだことは知っておらず、普通に会釈をしてリビングを通って自分の部屋に向かった。親友たちには先に部屋に上がってもらっておくことにし、母と今後の対応について考えた。とりあえず父の遺体、あるいは父がまだ生きている可能性もあったので体を病院に運ぼうということになった。そうと決まれば善は急げで、親友たちを部屋に残した状態で、母と私は病院に向かった。

車で病院に向かっている最中にも母と色々と話をした。母は父よりも先に自らが天に召されると思っていたようで、父が先に天国に行ってしまったことを受け止めることがやはり難しいようだった。病院に到着する途中のところでいつの間にか私は車から外に出ていて、道の端に母方の祖母が立っていた。祖母が穏やかな表情でこちらに近寄ってくると、これから母をよろしく頼むねと言われた。すると祖母はスッと消えていった。国道の脇の歩道に佇む私はぼんやりと空を眺めた。これからどうするか。今後は母とより定期的にZoomで話をした方が良さそうだと思った。母の安否の確認もそうであるし、話をすることによって母の心も安定するだろうと思ったのだ。今朝方はそのような夢を見ていた。

起床した後もしばらくこの夢について振り返っていた。ぼんやりとこの夢について考え事をし、キッチンに向かうと、シロシビン·マッシュルームの栽培キットに変化が見られた。地面の右端の方からマッシュルームの頭らしきものが1つ出ていたのである。栽培キットを覆うビニール袋のせいで正確に確認することは難しいのだが、ここ数日間毎日地面を眺めていたので、きっとあれはマッシュルームの頭だと思う。ここからもう少し頭の数が増えたら、毎日数回新鮮な空気を入れて、同時に霧吹きで湿度を上げるようにする。ここからマッシュルームがすくすくと育ってくれることを想像すると楽しみな気持ちになる。フローニンゲン:2023/11/23(木)04:42


11386. 意識に関する気づき


時刻は午前5時半を迎えた。それと共に暖房が音を立てて動き始めた。もしかしたらそれは自分の意識に上げる前から動いていたのかも知れない。自分の意識がそれに向けられたから暖房の存在が立ち現れたのか知れない。同時に、暖房は入っていようがいまいが常に自分の意識の外で存在を続けている。

先ほど朝のアニマルフローの実践を行っている最中に、意識についてふと思ったことがあった。それは何かというと、私たちは意識を持っているのではなく、意識の中にいるという考えである。端的には、私たちは意識という海の中にいて、私たちが意識と思うものは全て海の中に浮かぶ何かであり、意識そのものではないという考えが芽生えたのである。それはまるで海の中にいる生き物が海そのものを対象化できないのと同じく、通常意識においては私たちは自分たちが意識の中にいて、意識を持っているわけではないことに気づけないのではないかと思ったのである。私たちが意識として捉えるものは全て、海としての意識の何かしらの現れに過ぎず、意識の内容物に過ぎず、内容物を知覚しているという知覚さえ意識そのものではない。意識そのものはもっと広く深い。それは時間と空間を離れた無限な存在である。例えばおそらく意識が変性し、非日常意識が深まりの極地に到達した時に、海の中にいる自分が海の中にいるという明確な意識を持つことができ、海全体を一緒くたに把握することはできなくても、無限の広さと深さを持つ海にいるという認識を得ることはできるのではないかと思う。まさにサイケデリクスの体験が最も深まり瞬間にそのような現象が起こることがある。そこでは巨大な海の中にいるという明確な意識としての目撃者の意識が立ち現れることもあれば、そこからさらに意識が深まると、意識は非二元の状態となり、海と完全合一し、その感覚は海の中にいることに全く気づけていなかった認識段階での状態とは異なり、自分が大海の中にいるという目撃者の意識状態の後の現象ゆえ、一段深い認識段階での合一状態となる。

果てしなく続く海に切れ目がないのと同じで、意識そのものにも切れ目などはない。また、意識そのものと自己が合一してしまえば、自己は海という意識上で浮かぶ全ての存在と合一した存在となる。これが"oceanic consciousness"あるいは“unity consciousness”と言われるものの本質かも知れない。またこの本質ゆえに、内外宇宙の全体と一致している感覚が芽生え、それを“cosmic consciousness”と呼ぶのかも知れない。そのようなことを考えていた。どうやら今日も色々と閃きが多そうな1日になりそうで、今日を生きることがとても楽しみである。その楽しみを静かに味わいながらここからの一瞬一瞬を大切に過ごしていく。フローニンゲン:2023/11/23(木)05:33


11387. 新たな世界を開く書物/今朝方の夢の続き


昨夜ふと、何度もすでに読んだことのある本を新しく開く時、常に新しい世界がそこに広がっていることについて考えていた。すでに読んだ本であっても、書物は常に自分に対して新しい世界を開示してくれる。これは常に自分が変化し続け、常に新鮮な目で書物と向き合おうとする在り方があることと関係しているのだろうか。いずれにせよ、既読の書籍が絶えず新たな世界をこちら側に見せてくれることは興味深い現象であり、こうした気づきが生まれることそのものが書物の価値でもあると言えるかも知れない。絶えず自分の世界を刷新し、新たな世界を垣間見せてくれる書物。昨日も結局、存在論に関する論文集を2冊ほど購入した。片方は「メタ存在論」と呼ばれるもので、この分野の土地勘はほとんどないので、また新しい領野を歩けることが楽しみである。本当に自分は絶えず自己と世界に対するクエストをしている人間なのだとつくづく思わざるを得ない。

早朝に今朝方の夢について振り返っていたが、実はもう1つ夢を見ていた。そちらが起床直前まで見ていたものである。

夢の中で私は、ハーバード教育大学院のカート·フィッシャー教授の研究室にいた。依然研究室を訪問させていただいた時よりも部屋が広くなっており、また積み重ねられた論文の山もなくなっていてとても綺麗だった。その日はこれからフィッシャー教授の研究室でゼミナール形式のクラスが行われることになっていた。クラスには修士課程の学生と博士課程の学生が集まり、合計で10名ぐらいがその場にいた。その中にレクティカの共同設立者でもある哲学者のザカリー·スタインがいた。ザックとはメールでのやり取りをしていたぐらいで、実際に会うのは初めてだった。なんとも言えない知的なオーラを発するザックはその場で存在感を静かに放っていた。

フィッシャー教授のクラスが始まると、最初にフィッシャー教授がホワイトボードに脳の図を示した。不思議なペンでホワイトボードに触れると、フワッとホワイトボードから脳の図が立ち現れ、それは最先端テクノロジーなのだろうと思った。そこから少しフィッシャー教授が説明を始めたところで研究室の電話が鳴った。フィッシャー教授のアシスタントの博士課程の女性が電話を受けると、どうやら教育大学院のトップであるスクール長の女性からの連絡のようだった。本当はあと数分後にミーティングがある予定らしかったが、今はゼミナール中なので、フィッシャー教授は「10時半からにしてもらえないかと頼んでもらえる?」というような趣旨のことをお茶目な笑顔を浮かべて述べた。その時に、今学生たちと話をしていて忙しいので、という理由を付け加えるようにも指示していた。確かに今この瞬間、学生たちと話をしていると取れなくもないが、ここまでのところはまだフィッシャー教授の解説講義しかない状況だったので、嘘とは言えないが少し現状と違ったので、学生たちも笑みを浮かべた。すると、そのアシスタントの女性がなぜか突然泣き出した。どうやらそれは演技のようで、涙を流すような出来事があった学生とフィッシャー教授が真剣に話をしているので今からミーティングは無理だという立て付けにしようとする見事な演技で、電話の向こうのスクール長も涙を流しながら電話で話をしている女性のことを心配し、それならミーティングは10時半からにしようということになった。電話を切ると、そのアシスタント女性はピタリと泣くことを止め、ぺろっと舌を出してフィッシャー教授に視線を送り、その場にいた全員は大いに笑った。そこからのクラスは大いに盛り上がるだろうと思ったところで目が覚めた。フローニンゲン:2023/11/23(木)05:49


11388. スピノザへの、からの導き/時間と永遠


アインシュタインはスピノザの思想を信奉するスピノザ主義者であったが、自分もまた自らのサイケデリック体験を振り返った時に、スピノザの思想の大いに共感する部分が多くあり、スピノザの思想についてもサイケデリクスの観点から探究してみようと思う。オランダで生きたスピノザとの縁を何か感じている。そこではたと思い出したのは、今から6年ほど前の初夏にライデンにある「スピノザ記念館」に足を運んだことである。その時に、記念館の展示品をじっくり見ながら、記念館で販売されていた“Leibniz and Spinoza” “Spinoza Research: To Be Continued” “Spinoza and the Idea of the Secular” “Spinoza as an Economist” “Points of View and the Two-Fold Use of the Principle of Sufficient Reason in Spinoza”という5つの論文集を購入し、スピノザ全集を後日購入していたことを思い出した。6年前のあの時からスピノザは自分を惹きつける何かを持っていたのである。その何かはこの6年間明確な言葉にはならなかったが、今改めてサイケデリクスの観点からスピノザの汎神主義を含めて、物質と心に関する思想に関心を持っていることが明確になった。スピノザからの導き。いやそれはサイケデリクスによる導きか。いずれにせよ、スピノザが自分をサイケデリクスの道に導いたという側面と、サイケデリクスが自分をスピノザに道いたという側面の双方が必ず存在する。これも何かの縁だと思って、ここからスピノザの思想にも興味を持って接していこう。 

時間の流れ。時間の中にいると、時間は流れているかのように感じる。しかし、ひとたび時間の外に出てみると、時間は流れていないことに気づく。むしろ時間の外には時間はないのだ。きっとそれを永遠と呼ぶのだろう。なるほど、永遠とは時間の内側にあるものなのではなく、時間の外側にあるものなのだ。時間のあるなし、そして永遠のあるなしもまた存在論的なテーマであろうし、それをいかに知るかというのは認識論的なテーマになる。時間の内側に時間があるというのは少しトートロジカルに響くかも知れないので、時間が存在するリアリティの内側と表現した方が正確だろうか。そうしたリアリティの外側に出てみると、時間は存在せず、そこには満ち満ちた永遠しかない。そんな気づきがやって来た。

昨夜改めて、流暢さで言うと、日本語における日記の執筆は流暢だが、英語の日記はさほどではなく、一方で、英語の論文の執筆は流暢だが、日本語の論文の執筆は流暢ではないという違いがあることに気づいた。2つの言語でどうやら流暢さが発揮される領域が明確に異なるようで、それはやはり鍛錬量によるところが大きく、母国語と外国語の差はもはやあまり関係ないことが見えて来た。鍛錬の賜物とはこのことを言うのだろう。ここからも自分の中での書くという実践は、日本語での日記の執筆と英語での論文の執筆になるだろう。願わくば、書籍に関しても英語で執筆したいところである。2つの言語でそうした棲み分けが自然となされていくだろうし、それがいつか逆になったり、統合されたりするかも知れない。そのような展望が開けていた。フローニンゲン:2023/11/23(木)06:18


11389. サイケデリック哲学に不可欠な思弁的実在論と批判的実在論/

満月と究極的リアリティ


昨年大量に購入していた思弁的実在論に関する書籍がサイケデリック哲学の探究にこれほどまで役に立つは思っていなかった。心底書籍というのは不思議な存在で、依然読んだ書籍が自分の関心が変わった時には新しい顔として自分の前に現れる現象が起こる。今日はまず思弁的実在論の観点から古典的な現象学を批判し、思弁的現象学を打ち立てる試みをしている意欲作の再読を始めた。昨年のちょうど今頃に初読をしていたのだが、昨年読んだ時と今とは当然印象も違えば得られるものも違う。現代思想の中でも重要な役割を果たす思弁的実在論と批判的実在論は、インテグラル理論に加えてサイケデリック哲学の思想を深めていく際に極めて重要な役割を果たすと実感している。

現象学への関心の高まり。ここ最近挙げていた4つの哲学領域に加えて、現象学も鍵となる領域として挙げておかなければならない。それはとりわけ、サイケデリック体験に伴う超越的なリアリティを知覚する、経験する、さらにはアクセスすることに関して非常に重要な洞察をもたらしてくれるだろう。今一度古典的な現象学に遡り、そこから現代現象学の先端的な研究に触れ、昨年かなり探究していたグラハム·ハーマンのオブジェクト指向存在論についても学び直そう。こちらは「存在論」と名打っているが、現象学的にも重要な洞察を含む思想体系である。

私たちは部分的にであれば究極的リアリティにアクセスすることができるし、それを触知することができる。この時に、確かにそれは部分的な把握なのだが、忘れてはならないのは夜空に三日月を見た時、三日月は絶えず満月として存在していることである。私たちが地球から月を見れば欠けている時もあるが、地球の外にある月は絶えず欠けることなく満月として存在しているのだ。この比喩、いやこの現象は、観察者である私たちと究極的リアリティとの関係性にも適用できるのではないかと思う。とりわけサイケデリック体験中にアクセスされる究極的リアリティの世界はまさに本質的には満月なのであり、それに部分的であってもアクセスした瞬間には、満月全体に実は認識が背後で触れているということを意味する。そのようなことを考えていると、時刻は午前7時半を迎え、ようやく辺りが薄明るくなって来た。夜明けまでもう少しである。今日の午前中の読書もここからより一層捗るであろう。フローニンゲン:2023/11/23(木)07:35


11390. 唯一の究極的な意識と多様性/神経科学の価値と限界


ーーあなたかどれほど糸を結んでも、糸は常に1つであるーールーミー

皮肉なことに、たった唯一の究極的な意識、あるいは絶対的な意識の本質的な活動である多様な存在を絶えず創造的に生むという性質が、私たちに究極的な意識そのものを把握することの難しさを生んでいるように思える。端的には、私たちは一者から顕現した無限に多様な多者に目を奪われて生きているのである。ゆえに根元にある一者、根源として存在している一者に気づけないのだ。おそらく今後人類は、多様性尊重の流れを経て、一者に目覚めていかなければならないように思う。前超の虚偽に陥らず、退行しない形で多様性を尊重しながらそれらの根幹にある一者に目覚めていくことを通じて人も社会も輝くのではないかと思う。多様性の幹にあるもの、根にあるものに気付けるか。人類に求められている次なる認識はそれであり、その前にこの現代社会でしっかりと多様性尊重の考え方と在り方を根付かせていかなければならない。ルーミーが指摘するように、無数の結び目としての私たちは全て1つの糸として存在していることを忘れてはならない。

少し追記をしておかなければならないのは、サイケデリック·ルネサンスのおける神経科学の研究は、リアリティそのものの性質を理解することへの貢献はほぼないが、脳そのものを理解することや、サイケデリクスの医療適用においては非常に大きな貢献を果たしているという点である。自分が問題意識を持っているのは、現在のサイケデリック研究が神経科学に傾斜し過ぎる傾向にあり、社会科学、哲学、神学などからのアプローチが薄い傾向にある点である。神経科学を通じてサイケデリクスが脳内でどのような働きをしているのか、そこから心身への現象としてどのようなことが生じるのかが随分とわかって来ている。これは大きな貢献である。しかし、神経科学はどこまで行っても右象限の研究領域であるから、左上象限のマインドそのものの性質やリアリティそのものの性質を解き明かすことはないのである。神経科学にしかできないことは神経科学に任せ、自分は自分にしかできない研究を通じてサイケデリック研究の分野に貢献をしていく。

日々のサイケデリクスに関する学習はあくまでも学習なのであって、実践はサイケデリクスを実際に摂取することである。その体験を広くさらに深くしていくために絶え間ない学習があるのである。スタニスラフ·グロフが指摘するように、サイケデリクスの摂取を通じて引き起こされるホロトロピックな意識状態を通じて体系的に自分の意識世界を探求していくことをこれからさらに真剣に行っていく。そこで得られた発見や気づきは絶えず自身のサイケデリック研究にフィードバックしていき、そうした学術的な研究を通じて得られた知見を絶えず他者や社会に共有していく。そうした学習·実践上のフィードバックループの中に自分はいる。フローニンゲン:2023/11/23(木)09:20


11391. 脳と意識:テレビとテレビ番組のメタファーの更新


数日前に考えていた意識と脳をテレビとテレビのチャンネル、さらにはリモコンと見立てていたことについて少し新たな発見があった。そもそも現代のテレビのリモコンはかつてのテレビの外部に取り付けられていて、昔はその部分を回してテレビチャンネルを変えていたので、メタファーはよりシンプルに、脳を物質的なテレビと見立て、意識をテレビチャンネルと見立てた方がすっきりすると思ったのである。このシンプルなメタファーで改めて脳と意識の関係を考えてみたい。

ベルグソンは、脳が意識を生み出すのではなく、脳は私たちの心身の要求事項や環境の要求事項に応じて、意識を抽出するという考え方を採用していた。まさにそれは、テレビにおいて見たい番組をこちらの要求事項に合わせてチャンネルを変え、するとテレビ画面にそのチャンネルが映し出されるという姿に似ている。私たちの意識は、サイケデリック体験における超越的な意識、絶対的な意識にあるように、テレビのチャンネルを超えたものでもある。なので、テレビの向こうにあるチャンネルの向こうに、さらに無限のチャンネルがあって、そうした無限のチャンネルを生み出しているのが“unity consciousness”や“cosmic consciousness”と呼ばれるものだと考えるとわかりやすいだろうか。

ここでポイントなのは、脳は意識そのものを生み出すのではなく、意識の特定の部分を立ち現わせるということであり、確かに脳と意識には相関関係があるということだ。しかし注意しなければならないのは、相関関係と因果関係の混同であり、この混同を多くの神経科学者や物質主義者は犯しているのだと思われる。脳と意識には確かに相関関係があって、テレビがチャンネルの1つを映し出すのと同じく、脳が意識の一部を映し出すが、それはテレビがそのチャンネルを作り出しているわけではないのである。そのチャンネルには別に番組制作者という作り手がいるのだ。そうした番組制作者の総体が絶対意識や超越意識と呼ばれるものの正体である。

基本的にトランスパーソナル心理学ではそうした究極的な意識について扱うが、発達心理学で扱うのはその前段階の無数の番組としての意識内容の方である。まさにある番組のエピソードが時間の経過を追って物語が発展していくのと同じで、ある意識内容は質的な発達を遂げ、そこに物語構造としての意識構造が生まれる。さらに興味深いのは、その番組が究極的に深まりを見せると、すなわち物語構造が極地に辿り着くと、そこでその番組は番組そのものの枠の外に出ていき、究極的な意識に触れうる可能性があることだ。それは全ての番組に当てはまることで、全ての意識内容は構造的深まりを見せるといずれもトランスパーソナル心理学で扱うところの超越意識の次元に至るというのはそういうことなのだろう。こうして考えてみると、脳と意識についてテレビとテレビ番組の関係で考えることはとてもわかりやすく、そもそもそのメタファーの出発点となったベルグソンの洞察がいかに深いものかがわかる。フローニンゲン:2023/11/23(木)10:51


11392. 脳と記憶:テレビとテレビ番組のメタファーより


つい先ほど考えていた脳と意識に関するテレビとテレビ番組に関するメタファーに関して、また新しい気づきがあった。そこでは記憶について考えていた。記憶というのは脳が生み出すものなのだろうか。ベルグソンの考え、そして先ほどのメタファーを採用すれば、記憶も意識と同じく脳が生み出すものではないことがわかる。確かに記憶もまた脳と相関関係があり、ある特定の記憶と脳の部位が対応していることはすでに脳科学の観点からも明らかになっているが、そもそも別の調査では植物にも記憶があることがわかっており、植物には人間の脳に該当する器官がなく、ここからも脳が記憶を生み出しているわけではないことがわかる。

それに加えて、先ほどのメタファーを活用すれば、そもそも意識の内容物が記憶に該当し、それはテレビの番組として喩えることができる。私たちは記憶を脳に格納しているわけではなく、あくまでも記憶というのは形而上学的な性質を持っていて、意識の中に格納されているのだーーあるいは意識の一部の性質として存在しているのだ。そのような性質を持つ記憶は、テレビのチャンネルを変えると記憶として思い出されるという仕組みを持っているように思う。

そこから集合記憶というものについても考えていた。集合的に共有された記憶はテレビとテレビ番組のメタファーを使ってどのように説明できるだろうか。トランスパーソナル心理学の考えでは、集合記憶はトランスパーソナルな領域に属するものであるから、限りなく超越的な性質を持っている。なので究極的な集合意識は超越的な、絶対的な1つの意識と言えるだろうが、そうではなく民族や国家が共有するような集合意識は少し次元が下がり、テレビ番組のデータを格納するアーカイブのようなものだと言えるだろうか。昔はテレビ番組のデータをビデオテープとして残していたであろうが、今では物理空間に縛られず、コンピューターのサーバー空間に格納することできる。究極的な集合意識ではなく、社会的な集合意識や歴史的な集合意識は、インターネット空間に保存されているデータのようなメタファーで捉えることができそうである。ここからもやはり記憶そのものが物質的なものではなく、情報的なものであり、意識的なものであることが見えてくる。記憶もまた意識と同じく、脳が生み出すわけではなく、脳はあくまでも記憶や意識を映し出すものである可能性が高いことが見えて来たことを嬉しく思う。フローニンゲン:2023/11/23(木)11:08


11393. 脳と意識とサイケデリクス


脳と意識の関係についてテレビとテレビ番組のメタファーを修正してから、考えが次々と出てくる。今度は、そこにサイケデリクスを絡めてみたのである。

基本的にサイケデリクスを摂取していない通常意識の場合には、それに対応する形でテレビは通常のままである。通常のテレビに映し出されるのは予めて設定された番組のみであり、それ以外の番組が映し出されることはない。そもそもテレビの初期設定の機能としてそのようになっているのだ。しかし、サイケデリクスはその初期設定と機能そのものに変更を加える形で働きかける。テレビの内部的な機械構造がどうなっているのかは詳しくないが、脳としてのテレビにおいては様々な部位があり、様々な脳内物質と受容体が存在する。サイケデリクスはその服用量に応じて、どの部位にどのように働きかけるかを変えていく。例えば古典的サイケデリクスを高服用量で摂取する場合には、5-HT2Aセロトニン受容体に主に働きかける。通常はセロトニンで稼働していた脳がそこではセロトニンではない物質、例えばシロシンやメスカリンといった物質によって稼働するようになる。それによってテレビに映し出される番組が通常とは全く違うものになり得るというのは非常に納得する説明だと思った。

端的には、サイケデリクスそのものもまた突き詰めれば化学的な物質なので、 それそのものが変性意識を生み出すわけではなく、あくまでも脳の機能的変化を生み出すことを通じて、本来初期設定の番組にはないが背後に隠れて存在し続けていた裏番組を開示させる働きを脳にさせるのだと思われる。これもまたベルグソンの減量バルブ理論から導かれる仮説的な理論であるが、個人的には非常に納得度の高いものだと自身のサイケデリック体験とピーター·ショステッドのサイケデリック哲学思想から思うところである。午後からも引き続き、あれこれと思索を巡らせてみてまた何が発見されるかが楽しみである。フローニンゲン:2023/11/23(木)11:23


11394. パーソナルトレーニングの価値とサイケデリックトレーニングのやりがい


時刻は午後4時を迎えようとしている。今日はいつもより早めにジムに行き、早めに帰ってきた。夕方から小雨が降り始めるとのことだったので、それを避けるために午後に仮眠を取ってから起きてすぐにジムに向かった。今日のジムでのトレーニングは自主トレーニングだったが、そこでの学びが極めて大きかった。パーソナルトレーニングは固有の価値があり、そこで学んだことを自分なりに咀嚼したり、内省したり、はたまた学術研究のことをぼんやりと考えることができるなど自主トレーニングにも様々な利点がある。

改めてパーソナルトレーナーのエリーザとのトレーニングの価値は、もう1年間ぐらいのトレーニングになるのだが、毎回何かしら新しい工夫を取り入れて新たなメニューがあり、将来自分1人でトレーニングを行うようになった時のアイデアの材料をたくさん与えてもらっていることと、毎回微修正をしてもらうことを通じて、正しいフォームを徹底的に体に覚え込ませていく機会を与えてもらっていることである。細かなことで言えばその他にも、日々英語の動画しか見ていないし、英語の音声しか聞いていないのだが、話をするとなると、外出を極力控えていることもあり、エリーザとのパーソナルトレーニングの場は社交の場でもあり、英会話の機会にもなっている。これはパーソナルトレーニングの身体面での利点ではなく、マインド面での利点かと思う。毎週1度パーソナルトレーニングを受けているが、それへの対価の支払いはボディ面に関する価値だけではなく、マインド面に関する価値に対してもなされていることがわかる。

エリーザとのトレーニングもかれこれ丸1年が経つかと思う。彼女との最初のやり取りの記録をスマホで確認すると、本当に昨年の今頃からパーソナルトレーニングが始まったのだとわかった。厳密には、切りよく昨年の12月1日から毎週1回のパーソナルトレーニングが始まった。旅行があった時を除くと、約50回はすでにパーソナルトレーニングを受けてきたことになるかと思う。それを考えてみた時、これまでの着実の進歩を実感するし、逆にまだまだ学ぶべきことが多いのが筋力トレーニングの奥の深さかと思う。そこからふと思ったのが、これがマインドのトレーニングだったらどうなのだろうという問いだった。それは例えば学術的なトレーニングを考えてみるといいかもしれない。筋力トレーニングで客観的なフィードバックを得ながら正しいフォームでトレーニングをするのとそうでないのとでは結果に大きな差が出るように、学術トレーニングにもある種体系だった方法論があるので、それを知っているのと知らないのとでは、さらにアドバイザー的な人物がいるのといないのとでは雲泥の差をもたらすと思ったのである。そのようなことを考えながらトレーニングをしているとさらに、それではソウルやスピリットを顕現させ、それを治癒·変容の観点から鍛錬するサイケデリックトレーニングはどうなのかと思ったのである。これは極めて恐ろしい領域である。恐ろしく深く、恐ろしくやりがいのある領域である。この領域こそ単独で進めるのは難しく、また他者の実践を導くのが極めて難しい領域でもある。今自分はこの領域のトレーニングを提供することを避け、自分を実験台にして様々な創意工夫をしながらトレーニングをしている。その際に、他者の体験レポートや学術的な発見事項は随分と参考になる。しかしながら自分なりの調整や創意工夫が本当に多く求めらるのは確かであり、常に紆余曲折しながら前進している形である。今のところ、セルフ·セッションとサイケデリック業界の創造と育成の観点からの規制改革を実践の核にしているので、もう他者にセッションを直接的に提供することはないだろうが、サイケデリック·トレーナーのスーパーバイザーとしての役割は担っていきたいという思いはある。自分のこれまでの幾多の失敗体験とこれからの失敗体験、さらには創意工夫を通じた発見事項とノウハウを多くの未来のサイケデリック·トレーナーに共有できたらと思う。フローニンゲン:2023/11/23(木)16:07


11395. 今日のジムでの自主トレーニングの大きな工夫から得られた気づき


今日のジムでの自主トレーニングから大きな工夫をしてみたことがある。端的には、心肺の持久力を高め、粘り強さを心身共に鍛えていくために有酸素運動を再び取り入れることにしたのだ。アメリカにいた時やオランダに来てからの数年間はランニングを週に2回ぐらい行っていたのだが、その時には特段筋力トレーニングをしておらず、食事をベジタリアン食やヴィーガン食に変更して以降は体重が減り、それに伴って筋力量も低下してしまうような気がしたのでランニングは控えていた。ところが今朝方にふと、ヴィーガン食になってもタンパク質をうまく摂取することができ、さほど体重が減らないことがわかったので、筋力トレーニングに加えて有酸素運動を取り入れてみることにしたのである。隠れた狙いとしては、普段の学術研究における集中力を今よりもさらに引き伸ばす効果が期待される。すでに質の高い睡眠と重たくないヴィーガン食、さらには山伏茸を含んだ複数のキノコのサプリのおかげで、日々の学術研究は鋭敏かつ長時間にわたる高度な集中力に支えられている。しかしその質をさらにもう一歩高められるような気がして、とりわけ集中力の持続時間の拡張を狙って有酸素運動を取り入れてみることにした。

そこでふと疑問に浮かんだのは、筋力トレーニングの前後のどちらに有酸素運動を取り入れたらいいのだろうかという問いである。晴れていればジムまでジョギングがてら非常にゆっくりと走って行き、これも軽度の有酸素運動かと思う。自宅からジムまでずっとジョギングするかというとそうではなく、途中で3回ほどウォーキングに変えて、ジムに到着するまでに汗をかかないようにしながらも身体を温める工夫をしている。

調べてみたところ、端的には筋力トレーニングの前ではなく、後に有酸素運動を行うことが効果的なようだ。その理由としては、有酸素運動を最初に行ってしまうと、成長ホルモンの分泌が抑制されてしまうらしく、筋力トレーニングの効き目が減退してしまうそうだ。その知識を得てから今日はジムで筋力トレーニングをしてから有酸素運動をした。筋力トレーニングに関しても、パーソナルトレーニングの際に結構下半身を鍛えることが多く、また自分は元から下半身の筋肉は結構鍛えられているかと思うので、自主トレーニングの際には上半身をメインにしてトレーニングすることにした。なので今日はメインのトレーニングは45分間ぐらいのものとし、そこからボートを漕ぐかのようにローイングマシンを10分間ほど使い、そこからランニングマシンで非常にゆっくりと15分間ほど走った。最初はランニングマシンだけを使おうかと思ったが、複数のトレーニングをすることで身体の様々な部位が活性化されるのと同時に、脳にも違う刺激が与えられると思ったので、有酸素運動はその2つを行うことにした。それを行った結果、どちらのメニューの最後の方には軽いゾーンの状態に入っていて、もっとずっと長くその運動を続けられるような恍惚的状態に入っていた。あくまでも有酸素運動の目的は心肺機能を適度に鍛えることであり、脂肪を燃焼させ過ぎて体重が落ちることは避けたかったので、ゾーンに入ってもそこから長時間そのメニューをすることはあえてしなかった。しかしそこから学んだのは、ここ最近のサイケデリック·セッションを定期的に継続することを通じて、その時のピーク体験の感覚が脳と意識空間、さらには身体全体の細胞に記憶されているようで、有酸素運動を通じてその時の感覚が思い出されるかのような状態になったのは興味深かかった。ひょっとしたら有酸素運動はサイケデリック体験のピーク体験の持続を促したり、インテグレーション及びサイケデリック体験を後日引き伸ばし、その時の体験を追体験することにも有益なのではないかという大きな気づきが得られたことは収穫であった。フローニンゲン:2023/11/23(木)16:26


11396. 批判的実在論による筋力トレーニング&サイケデリックトレーニングへの発見


ジムでの筋力トレーニングが脳への刺激になっており、自宅に戻ってきてから随分と日記を書いているように思う。ジムの帰り道に書籍の受け取りのために玩具屋に立ち寄り、そこでいつもお世話になっているティムとヨスに挨拶をし、ヨスから書籍を受け取った。随分と前からもう自分は名前と顔を完全に覚えてもらっているので、身分証の提示がいらないほどである。今日はかなりの書籍を受け取り、まるでダンベルを抱えているかのような形で玩具屋から自宅に戻り、自宅に到着する頃には汗が滲んでいた。

ジムで考えていたことをを改めて思い出している。そこでの大きな気づきは、最近三大メタ理論の1つであるロイ·バスカーの書籍を読み返していて、批判的実在論の観点から筋力トレーニングについて発見があったことである。ジムでトレーニングをしている人たちを見渡すと、自分を含め彼らには固有の経験世界(the empirical)がある。そしてトレーニングには今のところ正しいフォームと呼ばれるものが存在していて、それは現実世界(the actual)を貫く形で実在世界(the real)にまたがって存在していると思ったのである。端的には、そうした正しいフォームが本来経験世界の外に存在しているにもかかわらずそれについて知識がない場合、さらにはフィードバックを受けない場合、長年トレーニングをしていても筋力が増強されていないような人を見かける。これはその人が経験世界に閉じてしまって、本当は効果的·効率的に筋力を付ける方法が現実世界に存在しているにもかかわらず、それを知らないことから生じる現象かと思われる。興味深いのは、現実世界において正しいフォームとされている形で存在しているものがなぜ正しいとされているかのメカニズムは、現実世界にはなく、トレーニングに関する自然科学が研究対象とする実在世界に存在していることである。そこでさらに考えたのは、実在世界に存在する効果的·効率的に筋力を使える各種のメカニズムを生んでいるさらに高次元の存在があるということである。バスカーの批判的実在論においては基本的に、何か個別具体的な現象を生んでいる私たちの目には見えないメカニズムや構造が存在する領域を実在世界と呼んでいるのだが、筋力トレーニングのコンテクストで考えると、ある個別具体的なトレーニングメニューが効果的·効率的だとされる科学的なメカニズムを生み出しているさらに一段上の説明論理が存在するかと思い、そうであれば実在世界は2つの階層に分けられると思ったのである。おそらくそれは解像度の問題で、メカニズムは無限に遡ることができるので、如何様にも実在世界は高度化ないしは細分化することができるのだと思う。

こうした気づきを得た後に、これを自身のサイケデリックトレーニングに当てはめてみようと思ったのである。つまり、サイケデリクスを摂取するにあたってのセット、セッティング、服用量に関して、様々な実験的試みをする中で、それらのそれぞれの試みに紐づく実在世界のメカニズムを明らかにしてみようと思ったのだ。本来は他者の体験を踏まえて現実世界での実験も必要だが、現状はサイケデリクスをもう他者に提供するつもりは今のところはないので、個人の経験世界から各種実験を行い、そこから抽象的なメカニズムを実在世界から見つけていくという作業に意欲的に取り組みたい。さらには、セット、セッティング、服用量だけではなく、体験中の意識の使い方によって体験の深みの度合いを変えることができるのか、それを実現するには意識をどのように活用すればいいのかの実験も様々行ってみる。このように、今日のトレーニングは有酸素運動が刺激になったのか、脳に新しい刺激がもたらされ、色々とサイケデリック研究に関する新たなアイデアと閃きがもたらされた。その現象を生んでくれた実在世界の目には見えないメカニズムに深く感謝したい。フローニンゲン:2023/11/23(木)16:52

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