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8828-8834: フローニンゲンからの便り 2022年7月28日(木)



No.3871 オレブロの夕日_The Evening Sun of Örebro


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1676, A Golden Dream

A golden dream is caressing the morning world.

The dream enwraps the entire world.

It is the only thing which is beyond the world.

Groningen; 09:19, 7/28/2022


No.1677, A Supernova Explosion

A supernova explosion occurred to me today.

This sometimes happens to me.

After this experience, I always become new.

Groningen; 21:14, 7/28/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8828. レイキャビクとダブリン旅行に向けて/シルス・マリアという避暑地

8829. 今朝方の夢

8830. 人間的であることの証としての過剰さ/街の記憶

8831. 執筆エネルギーの回復/資本主義というシステムの永続性

8832. 久しぶりのジムとサウナで爽快感を感じて

8833. 自分の記憶を一番知る人

8834. 回顧的自己内省を通じて


8828. レイキャビクとダブリン旅行に向けて/シルス・マリアという避暑地


時刻は午前8時を迎えようとしている。今朝はとても肌寒く、半袖で過ごすことが難しいほどだ。今の気温は12度で、今日は日中において19度まで気温が上がる予定である。今日は午後に、旅行から戻ってきて初めてジムに行こうと思う。ちょうど今週末にロビンさんとのジークンドーのプライベートレッスンがあり、それに向けて、いくつか確認しておきたいことがあるので、それをジムの鏡のある部屋で確認しておきたい。インターバルトレーニングのような形で、これまで習った技を自由に組み合わせて即興的に繰り出す練習をしていこう。


9月の初旬にはアイスランドとアイルランドに行こうと思っている。調べてみると、KLMではレイキャビクへの直通はないが、オランダの格安航空会社であるトランサヴィア航空、スカンジナビア航空、アイスランド航空など、意外と多くの航空会社がアムステルダムからレイキャビクまで直通で飛行機を飛ばしているので安心した。アイルランドの首都ダブリンまでも直通で飛行機がある。アムステルダムからレイキャビクまでは3時間、アムステルダムからダブリンに至ってはわずか1時間半ほどのフライト時間である。予定としては、まずはレイキャビクに行き、レイキャビクからダブリンへ、そしてダブリンからオランダに戻ってくるような旅にしようと思う。どちらも涼しい地域であり、自然も豊かなので、滞在する場所は街であっても爽やかな自然を満喫したいと思う。


昨日、スイスのシルス·マリアという場所を知った。ここは、過去の偉大な哲学者や詩人、作家などが霊感を求めてやって来て寛いだ場所である。例えば、トーマス ·マンやヘルマン·ヘッセなどはこの土地に癒しを求めてやって来た。哲学者で言えば、ニーチェもこの地で重要な執筆をした。『ツァラトゥストラはかく語りき』『反キリスト者』『偶像の黄昏』などの代表作はここで書かれたとのことである。シルス·マリアにはニーチェ記念館があり、調べてみると、Google Map上ですでに足を運びたい場所としてお気に入りに追加していたことを知った。これを機会にどこかのタイミングでこの地に足を運びたい。ルドルフ·シュタイナーにゆかりのあるドルナッハを訪れる際に合わせてここを訪れるのがいいだろうか。シルス·マリアの風景がとても楽しみであり、そこでの平穏な時間の流れと、落ち着いた風景と時間がもたらす霊感が必ずやってくるだろうという確信がある。フローニンゲン:2022/7/28(木)08:08


8829. 今朝方の夢


今日は本当に寒い。室内で長袖と長ズボンを着ているのだが、足下も寒くなったので、靴下を履くことにした。間も無く8月を迎えようとしているのだが、それでもこんなに寒いのかと驚かされる。明日からはまた少し気温が暖かくなるようなので、それに期待しよう。今日の気温は体感として低すぎる。贅沢だが、もう少し暖かい方が嬉しい。


今朝方の夢についてまだ振り返っていなかったので、夢について書き留めておこうと思う。夢の中で私は、欧州のどこかの街の本屋にいて、コミックのコーナーにいた。そこにはずらりと漫画が並んでいて、日本の漫画も英訳されたものが随分と並んでいた。私は、ある『蟲師』という漫画の英訳を探していて、残念ながらそれはなかったのだが、その他に面白そうな漫画を見つけた。ふと左の方を見ると、そこにとても背の高い日本人の若い男性が立っていて、真剣に漫画を選んでいた。彼の表情を見ると、どこかサイコパスのような感じがして、あまり近寄らないようにしておこうと思った。結局私は何の漫画も購入することをしなかったのだが、帰り際に、外国人の子供たちが日本の漫画について話し合っている前を通りかかり、彼らにいくつか面白い漫画を紹介した。すると彼らはとても嬉しそうにして、早速それらの漫画を探してみると本屋の中に入っていった。


次の夢の場面では、私は海辺の家にいた。そこはどうやら両親の別荘のようであり、今両親と一緒にそこに滞在しているようだった。どういうわけか洗濯機を使わず、洗面台でいくつかの衣類を手洗いしていた。意外と多くの靴下とTシャツを洗っていて、洗うのに時間がかかった。石鹸をそれらの衣類につけながら洗っていた時に、自分の靴下ではない白い靴下があり、それは父のものだと思った。どうやらそれはすでに洗ってあるようだったので、洗面台の外に置き、自分の洗い物に集中することにした。全ての衣類を洗い終えた後、今度はそれを外に干そうと思って、海が一望できる庭に出て行き、洗濯物を干そうと思った。そこで夢から覚めた。今朝はひょっとしたらその他にも何か夢を見ていたような気がする。特に前者の欧州のどこかの街にいる場面の前に何か夢があったような気がするし、あるいはその後にもう少し何か別の夢を見ていたような気もする。精神分析への関心の再燃と共に、引き続き夢は貴重な探究素材として大切に向き合いたいと思う。フローニンゲン:2022/7/28(木)09:44


8830. 人間的であることの証としての過剰さ/街の記憶


ビョンチョル·ハンは、現代は肯定性の過剰な時代だと説く。その指摘はごもっともなのだが、肯定性ではなく、その他の過剰さについてはどのように考えればいいのだろうかと考えを巡らせていた。一昨日の文明学のセミナーの際の補助音声ファイルの中で、自分はとりわけ創作活動や読書に関しては過剰さを求めるということを述べていた。まさに、ジャン·ボードリヤールがかつて過剰さは人間的であることの証であると述べていたように、自分にとってある種の過剰さは不可欠のものであり、大切なものである。この7年間継続して毎日執筆し続けている日記もまた過剰さの産物だろう。夢について書き留める夢日記もほぼ毎日必ず書いている。それもまた過剰さの現れだろうか。そうした過剰さが自分を治癒し、変容に導いて来たことは間違いなく、そうなってくると過剰さを単に否定することはできない。いかなる過剰さが病理的なものとして私たちの心身に悪影響を及ぼすのか、その一方で私たちに治癒や変容をもたらしうる過剰さとは何なのかを引き続き考えていきたい。


昨日、『アップロード』というアメリカのドラマを見ながら、記憶について改めて考えていた。先般のスウェーデン旅行と絡めてそのテーマについて考えていると、自分はスウェーデンの街を旅したという記憶が残っていながらも、仮に自分がこの世界から消えた場合に、自分のその記憶はどうなるのかと考えていた。おそらくその記憶は失われるのかもしれない。しかし、自分がスウェーデンを旅していたという記憶は、自己の消滅と共に消え去っていったとしても、スウェーデンの街がそれを記憶してくれているのではないかという感覚が芽生えたのである。それはある種の閃きなのだが、自分は確かにスウェーデンの3都市の方々を歩き回って色々と街の景観を眺めた。だが、それは見る者としての自分のみならず、自分を見ている街という存在に意識が向かい、街が自分を眺めていたという側面もあるのではないかと思ったのだ。すると、街を見ていた自己の記憶だけではなく、自分を見ていた街の記憶があって然るべきなのではないかという考えが芽生えた。そうなのかもしれない。一個人としての記憶のみならず、街にも記憶があるのかもしれない。それは人々の集合意識としての記憶、すなわちインテグラル理論で言えば左下象限の文化的集合記憶ではなく、右下象限の街が持つ集合記憶と呼べるものなのかもしれない。直感的に、記憶の存在論という観点でこのテーマについて考えてみると、きっとそのような記憶が存在しているに違いないとますます思う。街そのもの、そしてモノからなる物理世界にもまた記憶があり、絶えずそれを蓄えたり、刷新したりしているのではないだろうか。フローニンゲン:2022/7/28(木)10:07


8831. 執筆エネルギーの回復/資本主義というシステムの永続性


戻って来た感覚。書籍の原稿の執筆をしている最中には、どうしてもそちらに執筆エネルギーを割く必要があるため、日記の分量が必然的に減っていた。しかし、原稿の執筆がひと段落し、旅から戻って来て再び落ち着いた生活に戻って来て、再び日記の執筆に充てるエネルギーが取り戻されたように思う。ここからは以前と同様に、日々の読書や日々の何気ない体験について徒然なるままに日記を執筆していこうと思う。以前言及したように、分量としては毎月1本の博士論文を執筆するぐらいに日記を書いていて、この7年間で言えば、およそ84本文の博士論文を書くぐらいに日記をしたためてきた。日記を継続的に書き始めてまだたったの7年であり、その分量も博士論文84本分という雀の涙ほどしかないのだが、それに気を揉む必要はなく、これからも愚直に日記を執筆し続けていこうと思う。それはもはや単なる日記を超えて、デカルト、パスカル 、モンテーニュが行っていた思索的エッセーとしての日記になっていくだろう。この人生が終わっても、この世界が終わっても、自分が確かにこの世界に存在していたということの語り部としての日記。世界の終わりと共に日記が消滅したとしても、自分がこの世界に生きたという証として日記に刻まれたことは消えることはない。これは、先ほどの日記で書き留めていた記憶のテーマとつながる事柄である。自分が生きたこの平凡ながらにして変化に富み、物語性に溢れた人生は、目には見えない情報次元、ないしは集合的記憶次元の中でずっと生き続けるはずだ。


今日からまた資本主義というシステムに関する探究をしていく。そんな中、少しばかり改めてシステム理論についても参照しようかと思う。資本主義というシステムは、当初は人間がそれを道具として活用していたはずだが、いつの間にか主体が転倒し、資本主義が人間の生活の隅々にまで張り巡らされ、個人は分離し、個人は資本主義というシステムの駒に堕落した。ニコラス·ルーマンの社会システム理論の書籍をパラパラと眺めていると、いかなるシステムもシステム内の問題を温存し続け、それこそがシステムの存続条件なのだと指摘している箇所を興味深く読んだ。つまり、システム内で生じる問題が根本的に解決されることをシステムは望まないのだ。ある意味、システムはそうした問題を養分として生命を維持しているのである。資本主義というシステムもまたそうだろう。種々の問題を生み出し続けながらその存続を維持し、人々はその中で問題を解決するというよりも表面的にそれに対処しながら日々を生きている。このようにして、結局私たちは資本主義というシステムの分断された駒として、永遠にそのシステムを回しながら生きているのである。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2022/7/28(木)10:29


8832. 久しぶりのジムとサウナで爽快感を感じて


時刻は午後4時を迎えようとしている。今、夕方の世界はとても穏やかな太陽の光で満ちている。そして、爽やかなそよ風がフローニンゲンの街の頬を撫でている。先ほど、ジムと近所のオーガニックスーパーから帰って来た。スウェーデン旅行後初めてジムに行き、良い汗を流すことができた。今日はとても肌寒かったので、ジムに行くまでの道のりでジョギングをしていても汗は出てこなかったが、いざ鏡のある部屋でジークンドーのトレーニングを始めると、汗が滲み始めた。特にインターバルトレーニングを何度か行っていると汗が滲んだ。ここ最近は鏡のある部屋でジークンドーの鍛錬をした後に、ジムの大きな部屋に行き、そこで自重の筋力トレーニングをしている。もちろん鏡のある部屋でもそのトレーニングはできるのだが、他の多くの人と一緒に同じ空気を共有し、トレーニングに励む方が捗るような気がするので、ここ最近はその大きな部屋で自重の筋力トレーニングをするようにしている。今は自重でトレーニングをしているが、腹筋に関しては、腹筋ローラーが置いてあればそれを使ってみようと思った。それはトレーニング後のサウナに入っている時にふと思ったことであり、腹筋ローラーについては以前より注目をしていた。自重トレーニングを行っている際に、ボクシングのシャドートレーニングをしながら、その合間合間に筋トレをしているアフリカ系オランダ人のガタイのいい男性の姿を見かけた。おそらくボクシングだと思うのだが、マーシャルアーツをする仲間として声を掛けようと思ったが、真剣にトレーニングをしている最中だったのか声を掛けるのをやめた。自分もまたいつでもマーシャルアーツに関心のある人から声を掛けられていいように、広い部屋でも少しジークンドーの技を練習している。以前それで一度サウナに入っている時に声を掛けられたことがある。スウェーデン旅行に行く前にサウナに入って以来なので、およそ2週間振りにサウナに入ったところ、サウナはやはり良いものだと思った。ますます自宅にもサウナが欲しくなる。フィンランドやノルウェーで生活を始めたら、サウナがついている家に住みたいと思うし、今朝方はふと、映画を見るための専用の部屋を設けて、ホームシアターも欲しいと思っていた。こうした物質的欲求があることは健全な人間の証だろうかと考えながら、これから夕食までの時間をまた読書に充てていきたいと思う。フローニンゲン:2022/7/28(木)15:56


8833. 自分の記憶を一番知る人


時刻はゆっくりと午後8時に近づいている。今日は午後にジムに行き、サウナに入り、爽快な汗をかいたこともあって、大変心が清々しい。夕方自宅に戻ってきて、もう間なく丸4年目間協働しているベンチャーキャピタルのリープラジャパンさんとの先日のミーティングで、内面探求のワークの一環として自分も開発の一部に関わったIFD(intensive foundation design)と呼ばれるものを受けることになった。自分も成人発達理論の観点から開発に携わらせていただきながらも、自分は受けることなくずっと過ごしていた。昨年あたりに一度自分も受けてみることを勧められたが、結局その機会はないまま今を迎えた。そんな折、7年間ほどの付き合いのある知人でもある岡内雄紀さんにIFDの対話をリードしてもらえることになった。有り難いことにこの間のミーティングの際に岡内さんからIFDを受けてみることを勧めてもらったのだが、直感的にそれは今の自分に必要かもしれないと思ったし、何よりもIFDを通じてこれまで気づけていなかった自己を知れることや、断片的な記憶の物語をより包括的·統合的なものにしていくためにはこれ以上ない機会のように思えたのである。初回のセッションは来週にあるのだが、早速岡内さんから送っていただいた事前の記入シートを開いてみたところ、0歳から今に至るまで、今の自分を形成している印象的な出来事を記入していくことになることは知ってはいたものの、いざそれを取り組んでいこうとすると随分大変そうだなと思った。ところが、いざ記入を始めてみたところ、様々な重要な記憶が次から次に思い出されていき、あれよあれよというままに随分と記入を進めた。小学校の終わり頃までの大半の記入を終え、中学校に関しても取り急ぎ印象的な出来事についてはメモ書き程度に書き留めていた。明日は正午からオンライン説明会に登壇することもあり、その前後で時間を取られるであろうから、IFDの記入は明後日からの週末のうちに一気に記入を進めていこうと思う。0歳から3歳頃までの記憶は薄れているので、早速両親にも協力のメールを個別にし、父と母から自分を特徴付けるエピソードは何かないかと尋ねてみた。すでに何度もこれまで聞いているエピソード以外にも思わぬエピソードが出てくることを期待する。このIFDでは、今の自分を形成しているエピソードを包み隠さず共有していこうと思っているため、IFDの対話相手を努めてくださる岡内さんが両親以上にこの世で誰よりもこれまでの自分を形成していったエピソードを知る人物になるのではないかと思う。来週からの岡内さんとのセッションが今から楽しみである。フローニンゲン:2022/7/28(木)20:00


8834. 回顧的自己内省を通じて


リープラジャパンさんのIFDに向けたワークシートの記入を進めていると、無性と内側から途轍もないエネルギーが湧き上がってくる感じがする。自分の記憶を辿っていると、今の自分を形成する印象的なエピソードにまつわる記憶がどんどんと溢れ出てきて、無意識と意識が肯定的に暴れ出しているのを感じる。それはもはや爆発である。爆発以外の何物でもなく、これまでの人生においても節々で、あるいは比較的頻繁に内側で何かが爆発して、淀みなく言葉や記憶が姿を表すという体験をしている。今もそのような感じが自分を包んでいて、少し冷静になろうとしてこの日記を書いている。1人の人間の記憶というのは凄まじいものがある。また1人の人間の大して生きていないこの短い人生の中で堆積された歴史の重みにも感銘を受ける。とりわけ幼少期の記憶を辿ると、両親から授けてもらった数多くの事柄が今の自分を形成しているかを知る。もちろん、どんな親も100%の親ではあり得なく、そこには自分の心に傷をつけたエピソードもあるが、それを含め、そしてそれを上回るたくさんの成長機会と環境を与えてもらっていたことに改めて気づく。そして、物心がついて以降は、友人や学校の先生たちとの交流を通じて、今の自分を形成する種々の出来事を体験した。それらについても振り返りながら、今記入を少しまた前に進めた。本格的に記入をしていくのはまた明後日からにしようと思うが、これは本当に良い機会である。これまでの人生の単なる棚卸しを超えて、自分のシャドーや無意識にまで踏み込んだ回顧的自己内省の機会としてこれ以上のことはないかもしれないと思うぐらいである。おそらくこれをきっかけに、自分はまた新たに生まれ変わるような気がしている。少なくとも、これまでよりも数段ギアの異なるエネルギーで日々を生きていけそうな予感がしている。それくらいに自分の記憶と無意識と深く向き合うことは強力なのである。ここから記入を進めてしまうと、夜の寝つきが悪くなりそうなので、ここからは少し心を落ち着けるように静かな音楽でも聴きたいと思う。フローニンゲン:2022/7/28(木)20:30

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