No.3608 静かな花_Silent Flowers
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1488, We Are
We are what we think.
Rather, we are what we feel.
Groningen; 08:59, 5/2/2022
No.1489, Eternity
Time does not exist.
Only eternity exists in this reality.
Groningen; 11:05, 5/2/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8308. ファスティングを終えて/自己省察の最良の場としての旅
8309. 自然の美/今朝方の夢
8310. 今朝方の夢の続き
8311. 感覚の覚醒と涵養
8312. 主観的事実/超越性の神秘
8313. 形について
8314. 感覚について
8315. ジークンドートレーニング101:一本歯の下駄を履きながらの鍛錬/日々に彩りを与えてくれる種々の実践
8308. ファスティングを終えて/自己省察の最良の場としての旅
時刻は午前7時を迎えた。今、朝日が燦然と輝いている。今の気温は3度と低く、5月に入ったというのに、ヒーターが自動で入っている。これがフローニンゲンの5月である。やはり例年のように、5月半ば頃までは寒さを感じる日が続きそうである。気温は低いが、幸いにも今日は雲ひとつない快晴に恵まれるようだ。なので思う存分に日光浴をしよう。
昨夜、ファスティングを終了させた。回復食として茹で野菜と海藻入りの味噌汁を食べたのだが、実に美味かった。ファスティングをするといつも、食べ物の有り難さを深く感じる。1口1口に濃い味わいが広がっていき、食べ物の有り難みが深く自分の内側に浸透していくような感覚があるのだ。回復食を食べてしばらくすると、宿便が出て、腸内環境も整ったことが実感される。普段から体に良いものを食べているし、食事は基本的に朝にリンゴとヨーグルト、昼にバナナとオートミール、そして夜は温野菜と味噌汁しか摂っていないので、量に関しても多くはない。それでも毎日食事をしていると、胃腸が目に見えないところで疲れてしまうようなのだ。そうしたこともあり、旅行に合わせてファスティングをするというのは名案かと思う。ここ最近はおよそ1ヶ月に1度旅行に出かけているので、毎月1回ファスティングをする感覚でちょうどいいかと思う。
昨日、自分にとって旅は自己省察の最良の場であり、日記を綴ることは自己省察の最良の手段であることを改めて思った。旅の最中における非日常意識は、普段とは違った洞察や気づきをもたらし、それが自己省察を後押しする。そして、日記という表現形式は、自由に自分の内面世界を記述することに適しており、自己省察を促してくれる手段である。そのようなことを考えながら、次に行う旅へと意識が自然と向かう。今度の旅行は6月の初旬にしようかと思っている。リトアニアのカウナスが気になり、ポーランドのクラコフが気になっている。そうしたこともあり、両者の都市に訪れるのもいいかもしれない。もう欧州の主要な国の首都は巡っていて、ここからは各国の第2の都市やそれ以外の都市に足を運んでみる時期に差し掛かっているように思う。カウナスもクラコフもその一環である。当初の予定では、6月にスイスのアスコナとドルナッハに行くことを予定していたが、その計画もどこかのタイミングで実現させよう。カウナスとクラコフに先に行くのか、それともアスコナとドルナッハを優先させるのか。そのあたりをもう少し考えてみたいと思う。いずれにせよ、今年から来年にかけては積極的に旅に出かけて行こうと思う次第だ。フローニンゲン:2022/5/2(月)07:30
8309. 自然の美/今朝方の夢
朝日の輝きがすこぶる美しい。それに自然と見惚れてしまう自分がいる。タリンのギャラリー購入したアレックス·サロウ氏の原画のモチーフになっている太陽の輝きと照らし合わせてみると、この原画の持つ力強さが伝わってくるし、目の前に見える朝日の力強さも等しく感じられる。自然が生み出した美と人間が生み出した美の双方に感銘を受ける。人間もまた自然に生み落とされた自然の産物なのであるから、人間が生み出す美と自然が生み出す美が相反することは本来あり得ないことなのかもしれない。自然は絶えず美しく生きている。一方で、人間は美しく生きているのだろうか。答えは否であろう。戦争や自然破壊など、人間の愚行は目に余り、およそ美しく生きているとは思えない。美しく生きるという意味の回復と、美しく生きることが一つの自然な形での文化規範になるところまで浸透していくことの必要性を感じる。自分の日々の探究と実践はそこに向かうものでもある。
今朝方はいくつか印象的な夢を見ていた。夢の中で私は、父と一緒に1冊の英単語帳を母方の叔父のところに届けようとしていた。大の大人が2人で1冊の英単語帳を叔父のところに届けに行くというのは少し滑稽な光景だが、父も私も特に気にしておらず、むしろそれを楽しんでいた。叔父は予備校の英語科で働いているらしく、叔父の働く予備校に向かった。
予備校に到着してみると、そのあまりにも現代的な建物に驚いた。設備のハイテクさもさることながら、建物の作りが現代建築の最先端のように思えたのである。ただし、1つ恐怖心を与えたのは、建物内の足場が所々抜けていて、下に落ちるようになっていたのである。後ほど予備校のオーナーから聞いたところによると、それはわざととのことだった。なぜそのようなことをしているかというと、生徒たちの注意喚起能力を養うためとのことだった。普段から足元を気にせずにいるような生徒は、きっと試験問題を解く際にもミスが出てしまうであろうから、日常から緊張感を持たせておくという作りになっているらしかった。自分としては、ここまでやるのかと驚いたが、すでにその予備校はそこまで実装していたので驚かされた次第である。特に気を付けなければならないと思ったのは、2階以降である。叔父がいるのは5階だったので、その階で仮に足元を見誤れば、1階まで落ちてしまい、それは怪我どころではない可能性もあった。しかも5階は、人が1人通れるか通れないかぐらいの板が足場になっていて、危険度が増していた。
父と私は一列になって叔父のいる英語科の受け付けのところまで向かった。通路が狭すぎてもうこれ以上歩けないと思ったので、受け付けの近くから叔父を呼んでみた。すると、母方の祖母がなんとそこにいて、祖母が奥にいる叔父を呼んでくれた。父と私はもう体勢が厳しく、あと少ししかその場にいることができないと思ったので、早く叔父に来て欲しいと思った。私は持ってきた単語帳の名前を叫ぶと、叔父は誤解して、その単語帳が必要なのかと思って、それを持ってきてくれた。私はすぐに自分が持ってきた単語帳を叔父に渡そうと思ったが、手渡しをするとバランスが崩れそうになったので、単語帳を投げる形で叔父に渡した。そのような夢の場面があった。フローニンゲン:2022/5/2(月)07:46
8310. 今朝方の夢の続き
旅を経るごとに、自己はまた新たな自己を発見し、小さく変容を遂げていく。それに応じて、言葉の密度や質感にも何か変化が見られるような気がしている。どのような質感の言葉がどれほどの量生成されるのか。それは多分にその瞬間の自己の状態に左右されるのだが、その状態を変容させていく働きが旅にはあることが明々白々なものとして実感される。バルト三国の旅で得られた養分を、これからゆっくりと消化·咀嚼していこう。
今朝方の夢の続きを振り返り、いつものように朝の呼吸法と動的ストレッチ、そしてそこからの朝の創作活動に入りたい。そう言えば、叔父に英単語帳を届けた夢の中で、叔父が働いていた予備校には、立派な休憩室があった。そこは図書館の機能も担っていて、同時に健康に良さそうなジュースや質にこだわったコーヒーなどが置いてあった。それらを飲みに来た生徒たちは、とても美味しそうにそれらを飲んでいたのが印象的である。
そして気がつけば、私はその予備校で、英語のスピーキングに関するフィードバックを外国人の女性教師から受けていた。1つ自分でも気がつかないようなことをフィードバックされ、それを有り難く受け止めたが、それだけを改善しても、TOEFLのスピーキングのセクションで高得点は出せないように思えた。そこからは、その他にもっと改善するべきことはないかをその教師に尋ね、色々と細かなことではあるがフィードバックを受けることができた。
そのような場面を経て、小中高時代の友人(SS)の家の2階の彼の部屋にいた場面があったのを思い出す。そこには、バスケ部の先輩でもある彼の兄と、彼の兄の友達で同じくバスケ部の先輩がいた。私の目の前にいたのはその2人なのだが、実際にはその部屋には先輩たちがもっとたくさんいた。部屋の天井に吊るされたテープに何かを引っ付けるゲームをしている最中のようであり、いざ自分の番になったので宙に浮かぶことにした。2人の先輩はそれはずるいと述べ、もし宙に浮きながらやるのであればということで、最も難しい難題を私に課してきた。それは理不尽な課題であり、2人の先輩はそれは自分にはできないであろうことを確信しているようで、ニヤリと笑みを浮かべていた。その笑みが癇に障り、理不尽な要求をしてきたことが腹立たしくもあったので、私はいったん地面に降り、2人の先輩に今からタイマンで殴り合いをしようと持ち掛けた。私は別に2人の先輩を同時に相手にしても良かったが、一応タイマンでやり合う方が望ましいかと思った。
2人の先輩はその申し出に驚いているようであり、その隙を狙って、私は自分の怒りを爆発させる形でジークンドーの技をまず1人の先輩に繰り出した。先輩に向かっている最中から自分は冷静であり、どのくらいの力を入れれば先輩にどれだけの怪我を負わせることになるのかがわかっていた。しかし、それがわかっていながらも、結局は随分と大きな怪我を負わせることになるだろうなと思って、最初の先輩には右のジャブ、左のジャブ、そしてそこからのフックパンチを決め、その先輩は呆気なく地面に蹲った。その様子を確認するや否や、友人の兄であるもう1人の先輩には、サイドキックを思いっきり腹に喰らわし、先輩は後方に吹っ飛び、柱に頭をぶつけて地面に蹲った。その時私は、2人の先輩共に死んでいないことだけを祈った。その部屋には他にも先輩がいて、彼らは全員その場で唖然としていたが、集団で報復される危険性もないことはないと思ったので、私は速やかに部屋を出て、階段を降りていき、友人の家から外に出た。フローニンゲン:2022/5/2(月)08:06
8311. 感覚の覚醒と涵養
神々しく輝く朝日。それは万物の創造の象徴であり、自己の根元の象徴でもあるかのようだ。
旅から帰ってきて、旅がもたらしてくれる身体感覚の拡張と鋭敏化について考えている。やはり磨くべきものは感覚と感性であるということを改めて思い、感覚と感性を育むことに関して旅というのは本当に大きな役割を果たすことに気づく。
今回の旅を通じて、自分は再び新たな自己の側面を見出した。それを今からより深めていき、今後の旅の中でまた自己を再発見することを通じて、この自己は深くどこかに向かって養われていく。そのどこかを気にする必要は全くなく、またその過程で自分が何を成果として生み出すのかも気にする必要はない。重要なことは、絶えずこの世界との関わりの中で自己を深め続け、自分の仕事に献身的に取り組むことだけなのだ。全てが終わる瞬間。そう、自分の肉体的な終わりを迎えた瞬間に、何か木の実のようなものがポトリと落ち、それが次の世代の何かにつながればそれでいいのである。
対象を知的に理解することではなく、対象と触れた瞬間に、それそのものの本質と良さが直感的にわかることが重要だということが今回の旅を通じて改めて気づかされた。人間というのは自分が思う生き物なのではなく、自分が感じる生き物なのだ。自分とは自分の思考であるというよりも、自分の感覚なのである。思考はいくらでも嘘をつけるし、ごまかせる。だが、感覚だけはごまかせない。それは思考が入る余地なくやって来て、自分固有の形を形作るという性質を持っている。ゆえに、感覚というのは本来どこまでいっても純正かつ真正なものなのだと思う。そうした固有の感覚に開かれていること。それが常に重要だ。
5月のフローニンゲンの空はすこぶる澄み渡っていて、汲みすことのできないほどの美しさを持っている。そんな青空を眺めながら、スペインとイタリアの方々を巡ることを来年行いたいと思った。この旅は時間をかけて行いたい。スペインとイタリアにはまだまだ訪れてない町がたくさんあり、スペインとイタリアに呼ばれている感じがするのだ。それらもまた感覚の要求であり、感覚の共鳴かと思う。
人間は誰しも場や土地との結びつきがあり、それは感覚的な結婚のようなものである。スペインとイタリアの一体何が自分を呼んでいるのだろうか。その感覚的な意味を掴みにいくためにも自分は来年それらの国を方々巡る必要があるように思うのだ。感覚の要求に従うこと。そして、感覚をどこまでも研ぎ澄ませていくこと。今日のジークンドーのトレーニングも、これから始める箏の修練も、その優れた実践となる。フローニンゲン:2022/5/2(月)10:48
8312. 主観的事実/超越性の神秘
太陽は緩やかに進行し、地上に優しく生命力に溢れる光を届けている。
自分の感覚の内側に現れた現象、それは主観的事実と呼べるものであり、固有の価値と意味を持つ。客観的事実にのみ価値と意味が見出されがちな世の中にあって、改めて主観的事実の価値と意味を見出すことの重要さを思う。主観的事実こそ一般化されない唯一無二性を持っていて、それこそが多様性の土壌になるのだ。主観的事実を蔑ろにする多様性尊重論者の論陣がどれだけ馬鹿げたことであるかがここにも見える。結局のところ、全てを平準化し、一般化するような客観性尊重主義を貫いていては、真の多様性というのものは実現し得ないのである。世の中は、いつも簡単にそうに思えることをどうしてここまで取り違えてしまうのだろうか。社会で起こる諸々の問題は、極度に次元の低い取り違えによって生じているように思えて仕方ない。
自分を超越するものが自分を通して現れ、知覚されるというなんとも神秘的かつ重要な事柄に打たれるものがある。これは不思議な現象である。自分を超えているものが、どのようにして自分を通じて現れてくるのだろうか。自分を超えているものを自分はなぜ知覚できるのだろうか。そこには人間発達の重要なテーマと性質が隠れているように思えてならない。
おそらく人は皆、すでに今の自分を超えた何かを絶えず内包しているのだ。そうでなければ、自己を超越したものを捉えることの説明がつかない。自分の内側には絶えず高次のものへの憧れと、同時に今の自分を超えた存在の萌芽があって、それが超越的なものを私たちに知覚させるのではないだろうか。1つの気づきでもそうだ。気づきというのは絶えず超越的な性質を持っている。これまで自分が気付けなかったことがなぜある瞬間に気付けるのだろうか。気づきそのものは超越的なものなのである。気づきに気づける自分は、すでにある超越性を内包しているのだ。だから新たな気づきを得られるのだ。そしてさらに興味深いのは、超越は新たな超越を呼び込むということである。1つの超越は、次の超越の道を作り、次の超越を呼び込む働きをする。気づきが気づきを呼ぶというのは、まさにその現れである。
自分の中に内在する超越性。それは自己の存在にとって、宝物のように思えてくる。そしてこれは誰しもの中にあり、それこそ個人の尊厳というものの基盤なのではないかと思う。ここでもまた、社会においては個人の尊厳というものが単なる表面的な言葉として扱われているだけであり、くだらないおしゃべりをしているように思えるのは自分だけではないだろう。個人の尊厳を単なる表面的な言葉の次元で扱う時、それは皮肉にも、個人の尊厳を究極的に貶めてしまっているのである。それが起こっていることもさることながら、こんな簡単なことに気付けないこともまた現代社会の悲劇と未熟さの現れかと思う。フローニンゲン:2022/5/2(月)11:21
8313. 形について
作曲実践にせよ、絵画の創作にせよ、マーシャルアーツの実践にせよ、箏の演奏にせよ、そして日記の執筆にせよ、そららはいずれも形を生み出すという行為が共通している。ここで今一度、形というものについて深く考えなければならないし、形を生み出すというのがどういうことなのかを突き詰めていかなければならないと感じている。
先日までのバルト三国旅行において、実に様々な形を見て来た。それぞれの国の文化は、集合的な形の極致にあるようなものであり、さらに大きな視点で言えば、文明というのはより大きな集合的な形の極致にあるものだと言える。1人の人間が生み出す形は、文化や文明の礎になる。そうした点に個人が生み出す形の尊さや価値がある。
そこで自らに省察の矢が向かうと、自分は毎日どのような形をどのようにして生み出しているのだろうかという問いが立つ。いや、より正確には、自分が生み出す形は文化や文明にどのように寄与しているのだろうかという問いの方が重要な問題だろうか。いずれにせよ、今このようにして綴っている日記もまた、自分の言葉を通じた造形実践であり、形を生み出す行為に他ならない。形を生み出すことは、おそらく人間に宿命づけられたことなのだろう。発達心理学者のロバート·キーガンは、人間は意味を創出することを宿命づけられた存在であると述べているが、人はおそらく意味を通じて、あるいは意味を媒介にして形を創出することを宿命づけられた存在だと言えるかもしれない。人は形を通じて傷つくこともあれば、癒されることもある。形を通じて堕落してしまうこともあれば、形を通じて変容することもある。形というのは実に重要なテーマとして今の自分にのしかかっている。
ヨーロッパで生活しているこの期間に、ヨーロッパ文明が産んだ様々な形をできるだけ多く自分の目で実際に見て、自分の身体を通じて感じていこうと思う。もちろん理想はアフリカやアジア諸国の形も見ていくことだが、今の自分がヨーロッパにいることの意味はおそらく、まずはヨーロッパの文明的形を方々見て回ることなのだと思う。それが自分に期待されていることであり、自分もまたそれを期待しているのだと思う。フローニンゲン:2022/5/2(月)11:33
8314. 感覚について
——全て感覚になかったものは、悟性の中にはない——中世の学僧
自己と完全に一体化·同一化しているものは、感覚として把捉できないのではないかとふと思った。そうであれば、感覚で捉えられるものは自分ではない何かでありながら、同時に自分にやって来たものであることを考えると、自分にとってとても近しいものでもあるということが見えてくる。また、超越性の観点から言えば、自分が感覚を通じて把捉できるものは、自己を幾ばくか超越したものであるということも見えてくる。自分の感覚で捉えられるものをつぶさに観察していき、吟味していくことが感覚の涵養において極めて重要であろうし、感覚を通じて感じられるものの中に留まり続けること、すなわち感覚を感覚として味わうことの大切さも見えてくる。後者はとりわけ難しい。感覚の観察と吟味においては内省的思考が媒介されるが、後者はそれをしてはならないのだ。後者は純粋に、感覚を感覚として捉えることが重要になる。そこでは思考を手放し、感覚に自己を明け渡すことが肝要となる。これが現代人にとっては酷く難しいことだろう。現代人は言葉の奴隷であるかのように、すぐさま言葉を用いたがるが、それをしてしまうと純粋な感覚を純粋なままに感じることを難しくしてしまう。現代人にとって重要なことは、言葉の奴隷であるということをまずは自覚し、言葉による縛りと抑圧から少しでも自覚的に脱却していくことだろう。それに加えて、少しずつ純粋な感覚に自己を明け渡すという鍛錬を積んでいく必要があるように思える。
言葉の機能を少し緩めて、感覚に自己を明け渡してみる。すると、感覚は新たな感覚に自分を連れて行ってくれる。それは波のように収まることを知らない無限の運動であり、その運動に身を預けてしまえばいいのだ。1つ1つの波には固有の色と感覚があって、それら全体は感覚の無限の海となる。自己というのは、常にそうした海に浮かんでいる存在なのだ。そうした感覚的大海に自己は投げ出されているとも言えるし、そうした大海に自己は抱擁されているとも言える。自己は感覚の大伽藍の中にいて、守られながらにして感覚を養っていく機会を得た存在であるとも言える。
感覚の問題は、形の問題ともつながってくるテーマだ。このテーマもまた、自らの感覚を研ぎ澄ませ、養っていく実践と共に、絶えず形を生み出す実践に従事することによって考えを深めていきたいと思う。フローニンゲン:2022/5/2(月)11:48
8315. ジークンドートレーニング101:一本歯の下駄を履きながらの鍛錬/
日々に彩りを与えてくれる種々の実践
時刻は午後4時半を迎え用としている。先ほど、本日のジークンドーのトレーニングを終えた。旅の最中にも毎日短い時間でもジークンドーのトレーニングをしていたし、ファスティングの最中にもトレーニングをしていたのだが、ファスティングが晴れて明けた今日からは、少し長めのトレーニングをした。ジークンドーのトレーニング、すなわちマーシャルアーツのトレーニングは、他では代替できない形で自分の感覚を彫琢してくれる。また、独特な形で形を生み出す素晴らしい実践であると改めて感じる。
今日はまず、これまで習ったステップを全て総復習した。そこからジャブについて改めて取り上げて練習をし、先日届いた一本歯の下駄を履きながら各種のステップを練習し直し、そこにジャブやストレートリードの動きなどを組み合わせていった。もともと体幹は強い方だったのか、一本歯の下駄も履き始めたその日に慣れてしまい、今となってはそれを履きながらジークンドーの稽古ができてしまうことに驚く。自宅で行うトレーニングは、常に一本歯の下駄を履いていてもいいかもしれない。ただし、ロビンさんに教えてもらって間もない技の練習をする際には、やはり裸足で練習をするのがまずは良いだろう。そこから少しタスクレベルを上げる形で、その技に慣れて来た頃に一本歯の下駄を履きながらトレーニングをするのが賢明な道かと思う。
ちょうど今週の土曜日にロビンさんとのレッスンがあり、そこでまた新しいことを習うだろう。次回のセッションにおいては、前々回と前回の復習をして、そこからランク2の残りの技を習う。そうすれば、次々回はランク2の実技試験を迎えることができそうだ。前回ランク1の試験を行ってみて、それがとても意義のあるものに感じたので、今回もまた試験が楽しみである。ジークンドーは本来試験のようなものとは相容れないのだが、ロビンさんはそこはうまく技の習得度合いの確認の場とさらなる成長の場としてそのような試験を形式上設けている。その機会をうまく活用することは、自分にとって非常に重要だ。
ジークンドーのトレーニングは、マーシャルアーツに固有な形で自己を鍛えてくれる。同時に、異国の空の下で旅をすることは、自分の魂に養分を与え、そして鍛えてくれることにつながる改めて思う。バルト三国旅行においては、自分は旅を通じて自己を鍛錬し、ジークンドーを通じて自己を鍛錬していたことになる。
何やら、自分の人生においてなくてはならない実践が徐々に明確なものになって来ている。それは順に、日記を綴ること、作曲をすること、絵画を描くこと、詩を作ること、ジークンドーの鍛錬をすること、箏の演奏をすること、そして旅をすることである。それら7つの実践に、学術研究も実践に加えるならば、合計で8つほどの実践を通じて自らの人生を形作っていると言えるだろうか。それは多すぎず、少なすぎもせず、自分にとってはとても塩梅の良い数の実践である。そうした実践によって自分の日々が彩り豊かなものになっていることに本当に感謝しかない。フローニンゲン:2022/5/2(月)16:31
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