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7037-7041: アートの国オランダからの便り 2021年6月12日(日)


No.2352 神聖な植物_A Divine Plant


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.683, A Cool Climate

This morning is a little bit chilly.

Probably, the climate of Groningen takes a rest.

Personally, I prefer this cool weather.

Groningen; 06:19, 6/12/2021


No.684, A Conundrum

Is humanity the root of all evil in the world?

I can’t deny it.

Also, I can’t undoubtably reject the possibility that novel technologies transform humans into completely new beings rather than emancipate them.

This issue became one of my central focuses to explore.

Groningen; 21:41, 6/12/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7037. 今朝方の夢

7038. マネー、エコロジー、テクノロジー

7039. 主観的内的体験の改変傾向の加速化/記憶とアイデンティティのコントール

7040. 闇の中の虚構の光

7041. 小説的日記/マークーゼのエコロジー思想に触れて


7037. 今朝方の夢


時刻は午前5時半を迎えた。今朝は少しばかり霧がかかっていて、薄暗く感じる。ここ最近は20度を越すような日々が続いていたが、今日はどうやら20度に達しないらしい。最低気温も10度を下回るようなので、今日は少しばかりひんやりとした1日になりそうだ。


今朝方の夢をいつものように振り返ってみようと思う。夢の中で私は、見慣れない駅のプラットホームにいた。合計で3つのプラットホームがあり、そのうちの1つで私は列車を待っていた。


すると、高校時代の友人(HH)と小中高時代の友人(YU)がやって来た。どうやら2人は、これから大学入試を受けに行くとのことだった。


高校時代の友人はイギリスの大学を受験するつもりらしく、もう1人の友人もまたイギリス圏の大学を受験するとのことだった。だがその友人は両親から反対され、日本の大学を受験することを求められているとのことだった。私は日本の大学よりもイギリスの大学に進学した方が遥かに学びになると思っていたので、2人を応援することにした。


高校時代の友人は、イギリスの大学を受験するにあたって、かなり勉強をしていたらしい。彼が受験を希望する大学は、アメリカでいうところのSATのような試験のスコアを要求していて、その英語の科目が難しいとのことだった。私もかつてSATよりも英語のセクションの難易度が高いGREを何度か受験していたので、彼の苦労がよく分かった。


試しにどのような問題が出されるのか尋ねてみると、彼は問題集を広げ、いくつか問題を見せてくれた。すると突然、その場に母が現れ、どういうわけか母も含めて、その場にいた全員で問題をいくつか解いてみることになった。


やはりSATやGREを経験していない人にとってはどの問題も難しく感じられるようだった。しばらく問題を解いていると、小中高時代のある友人(HY)が駅のプラットホームにやって来た。彼もまた大学入試に向かうとのことだった。


彼は日本の地方国立大学を目指していて、彼にも色々と話を聞いてみた。どうやら、彼の学科は2年に1度しか募集をせず、募集人員もわずか5名とのことだった。しかもその学科は、宇宙に遍満する原初の物質を専門的に扱うところらしく、極めて特殊な学科だということがわかった。


2年に1回の募集、かつ募集人員が少ないことから、彼は現在4浪中とのことだった。今回が3回目の挑戦とのことであり、なんとか今年は受かって欲しいと思った。


センター試験と2次試験の配分について尋ねると、センター試験の方が重要らしく、2次試験は国語しかないようだった。彼のノートを見せてもらうと、やたらと漢字ばかり勉強しているのが気になったが、それは彼なりの勉強の仕方なのだろうと思った。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私は地元の街を自転車で漕いでいて、小中高時代のある友人(SS)の家の前を通りかかろうとしていた。友人の祖父は酒屋を営んでいて、その前を通った時、今から店が開くようだったが、どうやら今はもう酒屋ではなく、スイーツか何かを販売しているようだった。


スイーツを作る厨房は店の裏の方にあり、その様子がこちらから見えた。私は店に入ることなくその場を後にし、そこから数メートル先にある友人の家の前を通りかかろうとした時、家の扉が開いていることに気づいた。


どうやらこれから調理器具を店の人たちが運び出すらしく、店の従業員が彼の家の中にたくさんいる姿が見えた。ざっと15人は従業員がいるようであり、そんな数の従業員を雇って大丈夫なのかと勝手ながら心配になった。


気がつくと私は、実際に通っていた中学校の職員室の前にいた。職員室の中に入ると、まだ朝が早かったこともあり、先生はほとんどいなかった。どうやら私は正規の職員ではなく、臨時の講師のようであり、自分の席に向かうと、自分の席の横に前職時代の元同僚がいた。


彼は私の椅子の上に荷物やスーツを置いていて、そこが私の椅子だということを知ってそのようなことをしているようだった。彼に声を掛けて荷物をどけてもらおうとしたところ、彼はとても不機嫌そうな表情をしていたので、声を掛けることをやめ、近くにあった別の椅子に腰掛けることにした。


そこから私はスーツに着替え、シューズを履こうとした。そこで夢から覚めた。フローニンゲン:2021/6/12(土)06:10


7038. マネー、エコロジー、テクノロジー


時刻は午前7時を迎えた。小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。彼らの清澄なさえずりが辺りに満ちているのと同じく、自分の内側には探究熱が満ちている。今日もまた探究活動を営むことができるという喜びに浸っている。今日は、バーナード。スティグラーの書籍を少なくとも3冊通読したい。


対象領域としてはマネー、エコロジー、そしてテクノロジー。それらをどのように扱うかの理論的枠組みは、インテグラル理論、批判的実在論·メタ実在論、批判理論及び神学。インテグラル理論というメタ理論を用いて3つの対象を扱えなくはないが、それはあくまでも背後にある理論的支えとし、批判的実在論·メタ実在論、批判理論、そして神学を明示的に用いていくことになるだろう。


昨日、神学とテクノロジーに関する書籍を調査してみたところ、いくつか興味深い書籍を見つけた。一方で、仏教とテクノロジーに関する書籍を探してみたところ、わずか1冊しか書籍を見つけることができなかった。この点において、テクノロジーに関しては神学の方が仏教よりも関心が高く、学術的な貢献を果たしていることが伺える。


マネーに関してもほぼ同様の状況だが、テクノロジーに比べれば少しばかりましである。エコロジーに関しては、どちらも共に学術書は充実している。


毎月どれくらいの学術書を購入しているのか計算していないが、仮に50冊ぐらい購入してもわずか20万円ぐらいで収まる。50冊の書籍から得られる知識を考えてみると、そしてその知識がどれだけ自他の人生に貢献してくれるかを考えてみると、非常に安価であることがわかる。


感心テーマに沿った書籍を大量に読んでいると、核とするべく基本書——深く読み込んでいくべき書籍——が何かが自ずから見えてくる。例えば、マネーに関してはフィリップ·グッドチャイルドの書籍、テクノロジーに関してはバーナード·スティグラーの書籍はそれに該当し、最初から最後まで一言一句音読をしたいと思う書籍だ。


現在、書物を通読する際には、重要な箇所のみを音読している。手元の書籍をあらかた読み終えたら、探究テーマの基本書となるべく書籍を最初から最後まで音読していこうと思う。エコロジーに関してはどれが自分にとっての基本書になるかまだ探索中である。


神学とテクノロジーに関する書籍を昨夜8冊ほど購入リストに入れ、そのうちのどれかはまた基本書になってくれるのではないかと期待する。ちょうど明日からエコロジー関係の書籍を集中的に読み進めていこうと考えており、そこでエコロジーに関する基本書を見つけることができればと思う。フローニンゲン:2021/6/12(土)07:27


7039. 主観的内的体験の改変傾向の加速化/記憶とアイデンティティのコントール


朝の落ち着いた世界の中で午前中の読書を進めていた。フランスの哲学者バーナード·スティグラーの思想から得られることは非常に多い。


スティグラーの一連の著作物を読んでいると、フランス哲学は、やはりイギリスやドイツの哲学とは一風異なった趣を持っていることがわかる。それぞれの国の思想家の世界認識方法と内的感覚が随分違うことがわかり、そこに思想的風土の差異を見る。


インテグラル理論の全象限的な発想をもとにすれば、テクノロジーの発展だけを批判することもまた象限絶対主義であり、そもそもそれぞれの象限が発展していくことを進化の流れと見れば、テクノロジーそのものの発展を批判することはできない。


重要な点は、テクノロジーの発展の中に歓迎すべき点を見つけ、テクノロジーの発展もまた不可避であり、必然的な流れであるという前提のもとに、それが暴走することを防ぎ、他の象限と健全な相互作用を成しながら発展の歩みを遂げていくように方向付けていくことのように思える。


テクノロジーの発展の不可避性と必然性という前提を疑おうと思ったが、やはりテクノロジーを司る右下象限もまた進化を遂げていく生命体であることを考えると、その前提を覆すことは停滞や退行にしかつながらないであろう。ここに進化の必然性の過酷さを見る。進化発展していくことに不可避な困難さ。テクノロジーに関してはそれが顕著である。


先ほど、テクノロジーによる主観的内的体験の改変傾向の加速化について考えていた。自分もまた日々テクノロジーに触れる形で生活をしているが、改めて自分の主観的内的体験の種類や質に目を向けてみると、それが随分とテクノロジーによって規定されていることに気づく。


意識のリズム、無意識のリズム、体のリズム、時間のリズムもテクノロジーによってコントロールされている現代社会の特徴をスティグラーは洞察深く指摘している。テクノロジーは、薬にも毒にもなるという薬理学的な特徴を持つが、現代のテクノロジーは毒の方向に傾き、人間の種々のリズムを狂わせる形で絶えず私たちの身近に存在しているように思える。


その他に考えていたことととしては、テクノロジーとアイデンティティコントロールに関するものである。記憶とアイデンティティが密接に関係していること、さらには注意と情報選択と記憶が密接に関係していることを考慮に入れると、注意と情報選択をコントロールする現代のテクノロジー社会は、端的には私たちの記憶もコントロールし、それはアイデンティティのコントロールに他ならないのではないかと思えてくる。


ちょうど今日は午後に、「注意経済」に関する書籍を読もうと思っていた。私たちが何に注意を向けるのかが管理され、コントロールされた現代の経済社会において、注意が経済的リソースとして搾取されているだけではなく、注意が改変され、それが記憶の改変に繋がり、アイデンティティの改変に繋がっているという構造が見えてくる。


果たして人間は人間としてのアイデンティティを持って今後も生きていくことができるのだろうかという疑問を持たざるを得ない。フローニンゲン:2021/6/12(土)10:39


7040. 闇の中の虚構の光


気が付けば時刻は午後の4時半に近づいていた。今日はここまでのところ4冊ほどの書籍を読み終え、これから5冊目の書籍を読もうと思ったところである。


先ほど、イギリスの経済地理学者のデイヴィッド·ハーヴェイがいくつか自分の関心テーマに合致するような重要な書籍を出版していることを知った。例えば“The Enigma of Capital: And the Crises of Capitalism” “The Anti-Capitalist Chronicles” “Marx, Capital and the Madness of Economic Reason” “Seventeen Contradictions and the End of Capitalism” “A Brief History of Neoliberalism”などは自分の研究にとって重要なものだと判断し、これら以外の数冊を含めて文献購入リストに追加しておいた。


朝から4冊ほどの書籍を読み進める過程で、引用文献を調べていると、そこでもまた重要な書籍を見つけることができ、とても充実した時間を過ごしていたように思う。


しかしながら、読書の過程で考えさせられていたことは悲観的な内容である。この現代社会の良き側面がほとんど見えてこない。


もちろんこの人間社会や文明の中に光を見出すことはできるのだが、それは深い闇の中の一瞬の輝きに過ぎない。社会を覆っている闇があまりにも深いのである。


闇の深さに気づけば気づくだけ、呑気に光を享受することはできない。闇の変容に向けてわずかばかりでもいいので何かしらの貢献をすること。闇を直視し、闇に触れながらそれを変容させていく試みに乗り出していくこと。それが重要である。


社会を覆う闇が見えないというのは、これもまたテクノロジー文明の負の側面だろうか。スティグラーの言葉を用いれば、現代人はSNSやインターネットを含めたデジタル技術が発する「デジタルフェロモン」の虜になってしまい、それらの技術に無自覚的に吸い込まれる形で日々を過ごすことを余儀なくされ、虚構の光を見せられているのかもしれない。自身は闇の中にいるのだが、光を見せさせられることによって自分を取り巻く闇が見えないのである。


ここには記憶の問題も関与しているだろう。テクノロジーによって記憶の外部化が進み、内的感覚が搾取され、直感的に闇を感知することができない状態に陥っているのかもしれない。感覚的な劣化が日々刻々と進む現代人。


テクノロジーに飼い慣らされた現代人を見ていると、美的感覚までもが均一化し始めていることの怖さを思う。美意識というのは本来魔性の力を備えていて、それが例えば集団的狂気や集団殺戮と繋がっていることは知られていることである。


現在の均質化し、歪んだ美的感覚は、人間性を崩壊させる方向に働いているという点において、集団自殺的な力を持っていると言えるかもしれない。それに加担しているのがテクノロジーの暴走的な発展であるが、その発展を助長しているのは現代人の意識であり、テクノロジーに飼い慣らされていることの根幹には現代人の意識、すなわちテクノロジーに対するあり方が存在している。


しかしながら、テクノロジーに対するあり方を涵養するよりも先に、そうした機会が奪われる形で内的感覚が搾取·改変されているのだからこの問題を解決することの難しさに直面する。皮肉なことに、テクノロジーの問題をテクノロジーによって解決するという二重否定的な方法以外にあまり解決策が見出せない。フローニンゲン:2021/6/12(土)16:35


7041. 小説的日記/マークーゼのエコロジー思想に触れて


穏やかな土曜日の夕方に、再び日記を綴っている自分。この一連の日記がフィクションだったらどうだろうということをふと思った。


この一連の日記はフィクション小説なのかもしれない。目撃者の意識を維持して自分の人生に関する小説を書き、自分の人生という小説空間の中で生きる自分という人間について書き続けていく小説的日記を毎日綴っているのではないか。


ここに書かれることは全てノンフィクションなのだが、であるがゆえに全てフィクションなのだ。同時に一連の日記は全てフィクションであるがゆえにノンフィクションなのだ。


その単純明快なことに今更ながら気づく。人生そのものがノンフィンクションかつフィクションであり、フィクションかつノンフィクションなのだ。


言葉。言葉が自ずから現れる。言葉を生み出そうと考える必要など全くない。そのようにして捻り出した言葉は往々にしてつまらない。そして力がない。生命力がないのである。


自分は命を持った存在である。そこから生み出される言葉もまた生命力にみなぎったものでなければならない。


夕方の世界はひたすらに優しい。とことんまでに優しいこの世界は一体なんだろう。一方で、この世界に潜む狂気には戦慄してしまう。


夕方、本日5冊目の書籍を読みながら、フランクフルト学派の第2世代に該当するハーバート·マークーゼがエコロジーに関しても強い問題意識を持っていることを知った。そこから文献調査をすぐに行い、“Ecology and the Critique of Society Today: Five Selected Papers for the Current Context”にはマークーゼのエコロジーに関する重要な論文が収められていることを発見した。この書籍もすぐさま文献購入リストに追加した。


これまであまり意識していなかったが、毎月得られる投資収入の4分の1から5分の1ほどを学術書の購入に充てているように思う。投資収入が得られているという現在の状況は、その状況に感謝の念を抱きながら学術研究に向えというメッセージだと捉えている。


仏教の世界において、「活金」という発想があることを知った。それは文字通り、カネを活かす形で用いよというものだ。


その発想はカネの活用だけではなく、どのようにカネを得るのかに関しても当てはまる。資本主義社会の中で、その中核となる金融技術を最大限活用してカネを得ながらにして資本主義を批判している自分に矛盾を感じたが、どうやらそうではないらしい。


活金の発想で金融技術を活用することができ、それを用いて収入を得ることができ、それを用いてこの世界のためにカネを活用することができるのだ。


今日は本当に清々しい1日だった。気温がそれほど上がらず、これくらいの気温が6月から7月のフローニンゲンの本来の姿である。


マークーゼのエコロジーの発想について改めて思い出す。自然保護はそれそのもので重要な意味を持つが、それ以外にも人間の疎外を調和させる道としての役割も果たす。


自然との繋がりを通じて人間は自らとの繋がりを回復させることができるかもしれないということを個人的な体験を通じて思う。自然と常に触れ合っているような今の生活を通じて、自分自身が人間性を見つめ直し、人間性を深める道を歩んでいるように感じる。


自然があるということ。豊かな自然を保護しながらそれを育み、そうした自然と共生する形で人間もまた豊かになっていくこと。それはとても大きな理想であるが、やはりそこに活路を見出したいと思う。フローニンゲン:2021/6/12(土)19:56

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