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6470-6471: アートの国オランダからの便り 2020年12月11日(金)


No.1627 夜のエオリア_Aeolia of Night

本日の言葉

Compassion is infinite and its teaching knows no limits. Lotus Sutra


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本日生まれた5曲

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タイトル一覧

6470. 今朝方の夢

6471.『人間の時間(2018)』という傑作を見て


6470. 今朝方の夢


時刻は午前3時半を迎えた。今朝の起床は午前3時であり、これ以上ないほどに目覚めが清々しいものであった。


冬の時期は布団から出たくないということを聞くことがあるが、自分に関してはそのようなことはほとんどない。現在住んでいる家は、家全体の暖房が整っているため、外気が低くても、室内は暖かい。寝室も暖かいこともあって、起床時にぐずるようなことは全くと言っていいほどにない。


今朝方の起床が極めて爽快であったのは、昨夜はより入念にヨガを行って就寝したからだと思う。ベッドに横たわり、湯たんぽでお腹と足先を温めた後、すぐに入眠した。そして、眠りの質も高く、深い休息が実現されていた。


今日もまた自分の活動に集中して取り組めるであろうことがありありとわかる。映画鑑賞と作曲実践に邁進する形で今日という1日を過ごしたい。


今日は3時間を越す『ガンジー』をどこかのタイミングで見ようと思う。その他は今のところ決めておらず、リストを眺め、タイトルと解説文から響くものを感じたらそれを見ていこうと思う。


今朝方は少しばかり記憶に残る夢を見ていた。夢の中で私は、学校の教室にいた。そこで小中学校時代の女性友達の1人(AS)と話をしていた。


私たちはすでに成人となっていて、彼女の顔が随分と大人びており、幼少期の頃と印象が変わっていることに驚いた。教室にはその他にも友人たちがいたが、私はずっと彼女の近くにいて、絶えずではないが時折言葉を交わしていた。


聞くところによると、彼女は女優として仕事をしているらしい。教室にいる時も何か表情や立ち居振る舞いを作っているような印象があり、昔とだいぶ違うように思えた。そこから何人かの友人が私たちに散発的に声を掛けてきた。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私はまたしても学校の教室にいた。だが、1つ前の夢とは違う教室のようだった。


教室には布団がいくつか敷かれていて、教室内で合宿をしているような雰囲気があった。ちょうど窓際の布団で、大学時代のゼミの中で一番背が高い友人がゴロゴロしていた。


彼が布団の上を転がる様子が滑稽であり、何か巨大な鯛がまな板の上をゴロゴロしているようだと私は笑いながら述べた。すると彼は無邪気に、寝転がるスピードをさらに上げ、ますますおかしかった。


そこでふと教壇の方を見ると、そこで母が熱心に漫画を読んでいた。それは私が青春時代に読んでいたバスケ漫画で、母は以前にもその漫画を読んでいたが、どこまで読んだか忘れてしまっているとのことだった。


ちょうど私は、これからその漫画の最後の試合を取り上げた講義をすることになっていて、母にも最後の試合が描かれた数巻を読むことを勧めた。それに対して母は、途中巻を飛ばして読んで大丈夫かと私に尋ねた。


そこで私は、天文学者になりたい成人が、わざわざ中学の理科の生物分野から教科書を読み始める必要はない、というようなことを述べ、時系列的にその漫画を読む必要がないことを伝えた。母は納得したようであり、教壇の中にしまっている漫画を取り出そうとし、そこを私が覗くと、その他にもいくつか漫画があった。


そこで目を覚ました。目を覚まし、伸びをしてからいざ起き上がろうとしたところ、半眼状態でいたので、そこでもまたビジョンを知覚していた。


ちょうど夢と覚醒の意識の中間の状態にいるときにビジョンが知覚されることが多く、その時には街路樹が植えられた公園のビジョンを見ていた。公園内はとても暗く、数匹の大きな犬が走っていた。


それらの犬が歩いていく方を追っていくと、猪のような生き物にも遭遇した。真っ黒な影で形作られた人間らしき存在が現れ、それがリードを引いて犬と散歩していた。そこからも引き続きビジョンを見ていても良かったが、そこで完全に身体を起こすことにした。フローニンゲン2020/12/11(金)03:57

6471.『人間の時間(2018)』という傑作を見て


時刻は午後8時に近づこうとしている。今朝の起床が午前3時であったから、起床からもう随分と経っていることに気づく。


それにしてもここ最近の自分の集中力には驚かされる。日本からオランダに戻ってきてから、何か人が変わったかのように集中した取り組みが行えている。


確かに日本に戻る前の自分も探究や創作活動に没頭する日々を過ごしていたが、そこからまた1つ階層構造が変わったように思えるのだ。この秋の一時帰国は自分を真に変容させてくれる旅だったのかもしれないと振り返って思う。


今日もまた合計で10本ほど映画を見ていた。ここ最近は少なくとも8本ほど映画を見ていて、10本ほど見る日も増えてきている。


今日は映画鑑賞や作曲実践以外にも、音声ファイルを作成していたこともあり、仮にそれがなければもう1つ映画を見ることができただろう。夜の時間も映画鑑賞に充てることができなくもないが、あえていい意味での飢えや渇きをのある状態で就寝するのが良いという判断で、いつもここからの時間は映画鑑賞をしたり、作曲実践をしたりしないようにしている。


本日見た映画の中でも最も印象に残っているのは、今朝最初に見た、キム·ギドク監督の『人間の時間(2018)』という作品だ。端的には、これはここ最近見た中でもトップ3に入るぐらいの傑作だった。


偉大な芸術作品は、苦難の時代から生まれるとよく言われる。そうした観点において、この映画作品もそうだし、今日本で大旋風を巻き起こしている『鬼滅の刃』もまたそうだ。


後者のアニメに関しては、先ほども2話ほど見ていた。この作品の中に散りばめられた至言の数々を見ると、この作品がいかに傑作であるかを思う。


傑作というのは時代の苦難の血を養分として生み出されることを考えてみると、この作品が生まれた日本という国がどれだけ苦しみに喘いでいるかがわかる。一方で、こうした作品が存在し、多くの人に鑑賞されることによって、集合的な癒しと変容が起こりうるかもしれないということも思う。


キム·ギドク監督の『人間の時間(2018)』という作品に話を戻すと、これは成人発達理論やインテグラル理論の観点からも非常に興味深い作品だった。物語は、多様な人々を乗せた軍艦の中で人々が人間性を剥き出しにし、狂気に至り、そこでの生き残りをかけて生きていく姿を描く。


乗客たちは、最初は船旅に心を踊らせているのだが、船の上の非日常世界から、徐々に人々がおかしくなっていく。おかしくなっていくというよりも、非日常的な意識がもたらす正常な混沌を経て、人は別人になっていくと言った方が正確だろうか。


例えば、国会議員の男は最初良き人として振る舞っていたが、結局は一番異常な人間に変化してしまう。野望が大きい人間こそ欲望が一番大きく、そうした人間こそが欲望に飲み込まれて化け物に変わってしまうのである。


この物語の中に登場した寡黙な老人の果たす役目は極めて大きいように思える。彼だけが未来を知っていたかのようだった。その力はどこか、先日見た『メッセージ』の主人公が持っている力と同じであるように思えた。


老人は未来を読んでいたと思うのだが、それはある意味で未規定な未来である。しかし、1つ規定されていたものがあるとするならば、それでも時間は流れ、それでも人は生き続けるということだろうか。


いやひょっとすると、そこに人が存在しようがしまいが関係なく脈々と流れ続け、連綿と受け継がれていく何かがあるということだけが規定された未来であると認識し、老人はそこに向かってこの生を全うしたのだろう。


不思議なことに、混乱に飲まれ、狂気や絶望に飲まれてしまう人間たちがいる一方で、老人のように、そうした世界に足を最後まで踏み入れない人間もいるのだろう。彼らは時間展望と時間感覚が異なっているのだと思われる。


物語は原題の“Human, Space, Time and Human”の通り、「時間」→「空間」→「時間」→「そして人間」と続く。「空間」の章で船が浮いたのはどういう意味だったのだろうか?


それはおそらく、非日常世界、すなわち混沌とした世界への離陸を指していたのではないかと思われる。そして発達理論の観点で言えば、離陸の前と後の時間は歴然と異なる。


端的には、混沌を通過した後の時間は調和に向かう時間である。また、着陸後の時間は、変容後の時間であり、私たちが死んでも続いていく時間であると言えるだろう。


この作品を見ながら、人類のこれまで積み重ねてきた歴史を思った。歴史の中で確かに堆積されていく何か。そして受け継がれていく何かを思った。


人間は血を流し、争いながらも、それでも歴史を続けてきた。そしてこれからも人間の歴史は続いていくのだろう。


ラストシーンもまた印象的であり、男の子を生んだ主人公の女性は、息子と一緒に巨大な島となった船で生き続ける。そして男の子は青年となり、実の息子が性欲によって母を襲おうとするところで物語が終わる。


このシーンにも、人間の普遍的な性質を見て取ることができる。これは、ギリシャ神話の中で良く描かれる原型的な近親相姦の話とつながる。


インテグラル理論の観点で言えば、これは第二層の意識段階に到達していないと描けない作品ではないかと思った。いや、多分にトランスパーソナルな要素が盛り込まれていることが作品からわかるので、第三層に足がかかっている作品だと言えるかもしれない。いずれにせよ、大変興味深い作品を見ることができ、その幸福感に今もまだ浸っている。フローニンゲン2020/12/11(金)20:15

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