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6397-6398: アートの国オランダからの便り 2020年11月11日(水)


No.1546 生命の温もり_Warmth of Life

本日の言葉

Serene and quiet, the ideal man does not practise any virtue. Master of himself and impartial, he does not commit sins. Calm and silent, he does not see and does not hear. Hui-Neng


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本日生まれた7曲

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タイトル一覧

6397. 「写真」について

6398. “the fallacy of misplaced concreatness”/フォボスとタナトス/名乗ること


6397. 「写真」について


時刻は午前7時半を迎えた。今、空が少しずつ明るくなってきている。ダークブルーの空の下、小鳥たちが元気よく鳴き声を上げている。今日の彼らの声は、いつもより元気がいい。

昨日までの予報では、今日は晴れのはずだったが、どうやら今日は1日中曇りのようだ。小鳥たちは天気ではなく、一体何に対して祝福の歌を歌っているのだろうか。

昨日は、久しぶりに友人のメルヴィンと話をした。彼と話したことの中で印象に残っているものについては、昨日の日記の中で書き留めていた。

先ほどふと、そういえばメルヴィンが写真について述べていたことについて思い出した。髪を切ってもらっている最中に、客から電話があったことを思い出す。

どうやらその客は、今年フローニンゲン大学を卒業し、これから職を探すことになっているらしかった。それに際してのプロフィール写真をメルヴィンに撮影して欲しいという依頼の電話だった。

メルヴィンは美容師であるだけではなく、写真家でもあって、美容室には写真撮影用のスタジオとしてのスペースもある。以前、メルヴィンが撮影した写真を見せてもらったことがあるが、実に見事な写真を撮影している。

私は写真の専門家ではないので、写真の良し悪しを議論する観点はほとんどないのだが、彼の写真には歴史と物語が見える。撮影された対象が持つ歴史と物語が写真から浮かび上がっているかのように思えるのだ。

メルヴィンの話で印象的だったのは、「写真(photograph)」の語源は、「光(photo)」の「graph(描写)」であって、対象が持つ光を写し取ることが写真であるということを述べていたことだ。

対象の持つ歴史と物語には光があり、その光こそがその対象の真実なのだ。写真とは、そうした真実を写し出すものなのだろう。光の見えない真っ暗な早朝の世界の中で、写真に関するそのような話を思い出していた。

今日もまた作曲実践と映像作品の鑑賞に大いに時間を充てていこう。午前中には1件ほどオンラインミーティングがあるが、それ以外の時間は全て作曲と映像作品の鑑賞に充てていく。今日は映画を4本ほど見て、時間があれば何かしらのドキュメンタリーを見たい。

書物だけではなく、映像作品もまた、無限に広がる世界の扉としての役割を果たしてくれている。その扉を開けて作品世界に入っていくと、これまで知り得なかった知覚体験を得ることになり、それを通じて自己理解と世界理解がまた少し広く、深くなっていく。

本日の鑑賞体験を通じて、自己と世界の新たな側面を体験を通じて知ることになるだろう。それが楽しみである。フローニンゲン2020/11/11(水)07:44


6398. “the fallacy of misplaced concreatness”/フォボスとタナトス/名乗ること


時刻はゆっくりと午後8時に近づいている。今日は1日中曇っていて、太陽の光を拝むことができなかった。予報によれば、明日は午前中から夕方に雨が降るようであり、日没がめっきり早くなったこともあり、明日もまた太陽の姿を見ることができないかもしれない。

今日は結局、映画を5本ほど見ていた。洋画を3本見て、邦画を2本見た。何かに取り憑かれたかのように、貪るように映画を見ている自分がいる。それによって、これまでとは違った形で自己と世界に対する認識が深まっている。

映像の力は想像以上に強いものがある。明日もまた、今日と同じぐらいの数の映画を見ることができそうだ。1日5本をめどに映画を見ていくことは無理のないペースのように感じられているので、しばらくこれくらいの量を毎日見ていこう。

アルフレッド·ノース·ホワイトヘッドは、高度に抽象化された概念や理論を、その抽象度を無視して個別具体的な事象に適用する過ちを“the fallacy of misplaced concreatness”と呼んだ。

この概念は、抽象的な概念を個別具体的な事象だと思い込んでしまうことの過ちを表してもいる。抽象度の過ちと、抽象と具体の過ち。それは世間の言説の中でよく見かけることである。

先日、クリムトについて言及していたように思う。そのことを思い出しながら、エロスの病理的な形として現れるフォボスについて考えていた。

これは、恐怖と不安に駆られた上昇思考を内在しており、抱擁のない超越を希求するものかと思う。現代人の多くは、フォボス的な衝動に突き動かされている形で生きている姿が見える。

フォボスに加えて、アガペーの病理的な形として現れるタナトスについても目を向けなければならない。これは、死と破壊を象徴していて、死に向かう下降思考を内在的に持っている。

最近見た一連の映画の中にも、フォボスとタナトスの双方に突き動かされている現代人の姿をモチーフにしたものがいくつかあることを思い出す。フォボスとタナトスの双方に突き動かされながら、同時にそれらの板挟みによって堕落していく人間たちの姿が映画で取り上げられることがあるのだが、それは現代人の本質的な側面を描写しているように思えてならない。

そういえば一時帰国中に、「名乗る」という日本語について考えていることがあった。名乗るというのは、名前の上に乗るという意味なのだろうか。自らの名前を名乗るというのは、自分の名前に乗ってどこかに向かっていくことを意味しているのだろうか。名乗るという言葉の意味と、その行為についてもう少し考えてみたい。

外の世界の気温は低く、室内との気温差から、書斎の窓に霜が付着している。フローニンゲン2020/11/11(水)20:06

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