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6191-6193: アートの国オランダからの便り 2020年9月3日(木)


No.1328 やってくるもの_A Thing that is Coming

本日の言葉

Zen explains nothing and analyses nothing. It simply aims backwards, directly, at our mind, so that we can awaken. Seung Sahn

下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(8点:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6191. 京都の訪問/本日の読書の予定

6192. 今朝方の夢

6193. 芸術に関する難解な問いと出会って/可能世界と芸術/遊びとゆとり

6191. 京都の訪問/本日の読書の予定

時刻は午前5時を迎えようとしている。この時間帯はまだ辺りが真っ暗だ。

外はとても静かであり、物音は何もない。小鳥たちも鳴き声を上げておらず、静寂さと闇だけがそこにある。

気がつけばもう9月であり、10月中旬の一時帰国の日まであっという間に時間が過ぎていくのではないかと想像する。

今回の一時帰国では、やはり京都にも滞在しようと思う。実に久しぶりの京都だ。

高山寺や鞍馬山に足を運んだ時には、そこで絵でも描こうかと思う。風景を描くのではなく、その場で沸き起こる内的感覚を絵にしていく。

合わせて作曲もできたらいいが、パソコンを持って移動するのは重たくなってしまう。持ち運びに不便しないiPad Proに今使っている作曲ソフトをダウンロードすることは可能だが、それに容量を取りたくなく、またパソコンの方が操作が楽なので、引き続きiPad Proは絵を描くために使っていこう。それを持って高山寺や鞍馬山に出かけていこう。

当初は、高山寺か鞍馬山の近くの旅館にでも宿泊しようと思っていたが、色々と移動を考えると、やはり京都駅近辺のホテルの方が便利そうである。そこであれば、高山寺にも鞍馬山にも行きやすく、何よりも京都の中心部にある美術館や博物館も巡りやすい。

そうしたこともあり、宿泊先は京都駅近辺のホテルにしようかと思う。できるだけ和を感じられるようなホテルを選ぼう。いくつかすでに目星のホテルがある。

今日もまた創作活動と読書に励んでいく。読書に関しては、テオドール·アドルノがキルケゴールの美学について解説した”Kierkegaard: Construction of the Aesthetic”をまず読んでいこう。その後に、”Habermas and Aesthetics: The Limits of Communicative Reason”の書籍を読むことができたらと思う。

後者は、ヨルゲン·ハーバマスの美学に関するものであり、今日は美学関係の書籍を読む日となる。おそらく今日はその2冊の初読を読むことにとどまるだろう。

今日もまたいくつか書籍が届くかもしれない。届けられた書籍は初読を早々と終え、そこからは繰り返し手持ちの書籍を読み進めていく。

確かに毎月何かしら新しい書籍を購入しているが、この冬は少し購入の分量が低くなるような気がしている。この秋の一時帰国の際には和書を15冊程度オランダに持ち帰ることができたらと思う。それらの書籍を含めると、引き続き新しい書籍を読み進めていきながらも、既存の書籍を何度も繰り返し読んでいきたいと思う。

昨日も改めて自宅の書籍群の背表紙を眺めてみたところ、良書ばかりがそこにあることに気づき、それらは繰り返し読んでいくことによって、真に自分の血となり肉となるのだろうと思った。フローニンゲン:2020/9/3(木)05:08

6192. 今朝方の夢

時刻は午前5時を迎えた。今、一台の車が目の前の通りを過ぎて行った。それ以外の音は今のところ聞こえてこない。

今朝方はいくつか印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、チュニジアのような北アフリカ諸国のリゾート地にいた。街は砂埃が立つような乾燥具合であり、暑さもあった。

私はエキゾチックな街の中を好奇心に見開いた目をして歩いていた。すると、日本人の姿をちらほらと見かけた。どうやら彼らは企業から派遣された駐在員の人たちのようであり、彼らの子供たちの姿も街中で随分と見かけた。

私はふと、その街の寺院に足を運んだ。すると、2人の僧侶が鐘を鳴らしながら何か話をしている姿を目撃した。

私は彼らに近寄り、挨拶をしたところ、彼らは最近の若い僧侶たちの信仰心について話していた。どうやら、最近の若い僧侶の中にはあまり熱心ではない人たちがいるらしい。

2人の僧侶は、それに対してどうしたものかと少し嘆いていた。2人の話を聞いた後、私は寺院を離れ、再び街中を歩き始めた。北アフリカの雰囲気が私を包み、ある種の恍惚とした感覚に陥った。

気がつくと私は、高校時代にお世話になっていた英語の塾の教室にいた。先生の授業がちょうど始まろうとしており、別の高校の野球部に所属する友人とペアになって、英文和訳の最初の問題に取り組むことになっていた。

いざその問題に取り組んでみると、意外と難しく、苦戦を強いられた。私の隣にいた小中学校時代の親友(KF)と話をしていると、いつの間にか問題を解く時間が終わっていた。

不本意な形で先生に解答を提出することになってしまった。先生はすぐさま採点と添削をし、採点結果は10点満点中4点だった。

添削結果については、それが書かれたファイルを携帯に送ってもらう仕組みになっていて、すぐにそのファイルを開こうと思った。すると、私の携帯はガラケーであり、ファイルの重さからかなかなかファイルが開けなかった。

その様子を見ていた先生は、隣いにる親友にファイルの開き方を教えてもらいなさいと述べた。私はファイルの開き方は知っていて、単にダウンロード速度の問題だったのだが、一応携帯を親友に渡した。

親友に渡したタイミングでファイルを開くことができ、見るとそこには酷評が書かれていた。先生はそこから口頭でも添削結果についてフィードバックをし始め、その間に問題の解説はなぜか私の父が黒板の前で行っていた。

先生は、父の解説の見事さに少し焦っているようだった。正直なところ、ファイル上の先生からのコメントは大して参考にならないと思った。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面もまた先ほどの北アフリカ諸国のリゾート地だった。宿泊先のホテルのミーティングルームに私はいて、そこで小中高時代の女性友達たちと話をしていた。

彼女たちと小さな円になって、何かをシェアしていた。すると、私の左隣に見慣れない女性がいた。彼女は、私の右隣にいた女性友達(KE)の友人とのことだった。

どういうわけか、私は挨拶もそこそこに、彼女が理系か文系かを尋ねたところ、「理系ですけど、その質問は大物か小物かを区別しようとしていませんか?」というようなことを言われた。私は決してそんな差別をしていなかったのだが、彼女はそのように受け取ったらしい。

そもそも、彼女の頭の中に理系の女子は大物であって、文系の女子は小物であるという差別があるのではないかと思った。そこからしばらく円形でみんなと会話をし、ちょっと飲み物でも買いに行こうとしたところ、その女性が私に謝ってきた。

どうやら少しイライラしていたので先ほどあのような言葉を述べてしまったらしかった。私は別に気にしていなかったので、それじゃあイライラを解消するために、チョコレートとコーヒーでも売店に買いに行きましょうと提案した。

すると彼女は乗り気になり、私と一緒に売店に行くことにした。売店に到着し、早速コーヒー売り場に向かったが、なかなかコーヒーが見つからなかった。

実はつい先ほどこの売店でコーヒーを購入したはずなのだが、どういうわけか先ほどの場所にコーヒーが置いていないように思えた。私がコーヒーを探していると、彼女はUFOキャッチャーのようなゲームに関心を示し、何か取りたいものがあるようだった。

すると、私はコーヒーコーナーを見つけ、そこに良さげなコーヒーが置かれていることを嬉しく思った。私はすぐに彼女に声をかけ、一緒にコーヒーを選び始めた。

すると、そのリゾートホテルのお偉いさんが売店にやって来た。そのお偉いさんは結構な年齢になったおじさんであり、彼は彼女に声を掛けた。どうやらそのおじさんは彼女に関心があるようだった。

私はちょっとそれを君悪く思ったし、彼女も君悪そうにしていた。そうしたこともあり、私たちはすぐにコーヒーを選んでその場を後にしようと思った。

するとどういうわけか彼女がその場から消えていて、そのおじさん風のお偉いさんが、白い紙でできた巻物を手に持っていた。巻物の中に血のようなものが滲んでいて、彼は彼女を巻物の中で殺害し、それを1つの芸術作品にしたのだと私は気づいた。

彼女が殺害されたことに対して私の中から怒りの感情が湧き、そこからどうやってそのお偉いさんに報復しようかと考え始めた。そこで夢から覚めた。フローニンゲン:2020/9/3(木)05:35

6193. 芸術に関する難解な問いと出会って/可能世界と芸術/遊びとゆとり

時刻は午後7時半を迎えた。今は午後から降り始めた雨が引き続き降っている。静かな雨音が外の世界に鳴り響いている。

振り返ってみると、今日もまた読書が大いに捗った。結局今日は、4冊の書籍の初読を終えた。今朝は4時に起きたので十分な時間を読書に充てることができたことを嬉しく思う。

今日の読書から得られたことは多々あり、それらを少しずつ自分の言葉でまとめていこうと思う。今日の読書から考えさせられたことの一つとして、哲学者のネルソン·グッドマンの有名な問い、 “What is art?”ではなく、“When is art?”という問いにしばし固まったことを挙げることができる。

グッドマンは、「芸樹とは何か?」と問うたのではなく、「芸術とはいつなのか?」「芸術体験はいつ始まるのか?」という問いを投げかけた。その問いの直後に、ロイ·バスカーの批判的実在論をもとにした“Where is art?”という問いが書かれていて、それに対して再度固まった。それらの問いに対する自分なりの暫定的考えを醸成していこう。

今答えることのできない問いに答えていくこと。それが内的成熟のプロセスである。

芸術が個人や社会の治癒·変容に果たす役割について考えさせられる書籍を読んでいたときに、改めてハーバマスとバスカーの思想体系から芸術の役割について考えていこうと思った。芸術作品の鑑賞のための美学ではなく、社会実践としての美学を優先して探究していく。

もちろん、今よりもさらに芸術体験を深めていく上では前者の美学を学んでいくことにも意義がある。だがそれだけ終わりにしてはならない。兎にも角にも、社会実践としての芸術について焦点を当てていこう。

そこからふと、以前読んでいた可能世界論に関する書籍のことを思い出した。芸術は、今この瞬間のリアリティを映すだけではなく、未だかつてないリアリティを想像し、そして創造することにも寄与していく。

そう考えてみたときに、芸術は無数の可能世界を創造することに寄与していくことができるのではないかと思った。単なる空想の産物ではなく、それを出現する未来として創造することも可能なのではないかと思う。そうした点にも芸術の寄与する領域がありそうだ。

遊びとゆとり。ゆとりが遊びを生み出し、遊びがゆとりをもたらすという相互互恵関係について考えていた。

日々の創作活動は確かにゆとりがあるから実践できているという考え方もあるが、むしろ創作活動に従事することがゆとりと遊びを生んでいるように思う。あるいは、それそのものがゆとりと遊びの産物であり、創作活動と遊びとゆとりは三位一体のものに思えてくる。

今夜はもう少し曲の原型モデルの作成に時間を当てたい。写譜としての原型モデルの作成を日々小さく進めてこう。

毎日1曲でも良い。現在進めている集中的な読書が落ち着く時期を迎えたら、また写譜の量を増やすのも良いだろう。

小さく少しずつ進むこと。それを明日も心がけていこう。フローニンゲン:2020/9/3(木)19:46

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