No.1294 雲の行進_A Parade of Clouds
本日の言葉
Humans are social creatures and taking care of each other is the very basis of our life. Tenzin Gyatso
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本日生まれた10曲
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タイトル一覧
6166. 今朝方の夢/無限の詩と一編の小説
6167. オランダのオルタナティブバンクのトリオドス銀行について
6168. 社会に蔓延する音響兵器
6169. 暴力的な声・治癒と変容をもたらす声/無自性と悟り/数字の「3」
6166. 今朝方の夢/無限の詩と一編の小説
時刻は午前7時を迎えようとしている。昨日の天気予報とは少し異なり、今は雲は多いが晴れている。どうやら今日は、午後から夕方にかけて少しばかり雨が降るらしい。
昨日と同様に、今日もまた少し鼻水が出る。いつも私は、季節の変わり目にこうした症状を経験する。
変わり目に差し掛かった時にそれを経験するというよりも、季節が完全に新たなものに移行した直後にこうした症状が出ると言った方が正確であり、季節が完全に秋に移行したのだと知る。
今朝方はそれほど印象に残る夢を見なかった。とは言え、少しばかり記憶に残っていることがある。
夢の中の私は、欧州のどこかの街にいた。その街の人通りの少ない広場かどこかで、日本人のサッカー選手と話をしていた。その選手と話をしていたのは、その国の文化や教育に関するものだった。
その他に見ていた夢として、先日依頼を受けて執筆したある原稿の最終版が送られてきて、見ると手直しをする必要が全くないことがわかって安堵した。先方の編集担当の人が上手く編集をしてくれたのだとわかり、その方の仕事を労った。
そのような夢を今朝方見ていた。実際のところは、もう少し夢の場面があったような気がする。いずれにせよ、今朝方の無意識の世界は落ち着いていたようだ。
運命を生きる自由を体現して日々を生きること。そのような生き方が日々実現されている。今日もまた自分の運命を自由に生きて行く1日になるだろう。
今日はオランダ時間の正午から、慶應大学の前野先生との対談イベントがある。午前中は、その対談に向けて、前野先生の書籍を読み返すことをしたい。
昨日は結局、経済学関係の書籍を読んでおり、その後、社会の持続的発展を志すオランダの銀行や投資ファンドについて調べていたこともあり、先生の書籍を読み返す時間があまり取れなかった。初読の際に下線を引いたり、書き込みをしたりした箇所を中心に読み返して対談に臨もう。
昨夜も改めて、自分は音楽を通じて小説を書きたいわけではないことについて考えていた。自分が書きたいのは音楽を通じた詩である。そして、日々綴っていく無限の詩が人生の最後に1つになったとき、巨大な一遍の小説のような物語が顕現してくれればと願う。
毎日描く絵についても同様だ。それも詩なのだ。日々の営みの中で湧き上がる感覚や感情を詩として音と絵の形にしていくこと。それを絶えず絶えず行う。今日も明日もそれを行う。
音楽理論と作曲理論の学習もまた旺盛に行なっていきたい。今は本当に毎日ゆっくりとそれを進めているが、どこかで集中的に学びを深める時期を設けようかと思っている。
年内は美学、経済学、政治学、社会学、霊性学、批判理論や批判的実在論などの哲学を中心に読書を進めて行く予定のため、音楽理論や作曲理論のための読書にはあまり時間が割けないだろうが、作曲実践を通じて少しずつ理論的なことを学習していこう。そうした小さな積み重ねと、どこかで集中的に学習することを織り成していこう。フローニンゲン:2020/8/28(金)07:08
6167. オランダのオルタナティブバンクのトリオドス銀行について
時刻は午前7時を迎えた。今、穏やかなそよ風がフローニンゲンの街を通り抜けている。空は曇っているため、今朝は朝日を拝むことができそうにない。
昨日、今年の秋の一時帰国に向けて、行きの際にお世話になるブリティッシュ·エアウェイズについて調べてみたところ、どうやら経営状態が良くないらしい。パイロットの解雇の話などが出てきているようであり、ロンドンから関空への便も運休となっている。
帰りにお世話になるフィンエアーは、すでに10月から関空での運行を発表しているが、ブリティッシュ·エアウェイズについてはまだそのような発表がない点が気になる。一応、現在のところ、東京に向かう便については数は少ないが復旧しているようなので、今後のブリティッシュ·エアウェイズの対応を待ちたい。
ブリティッシュ·エアウェイズは、2019年の4月に20年振りに関空に飛ぶようになったようであり、そこからの1年の間にコロナを受けて運休になるというのは、何かとても残念な話だ。そもそもロンドンと関西を結ぶ唯一の直行便は、JALが2009年まで運行していた1つの便しかなかったことを知り、少しばかり驚いた。
社会人の頃に大阪に住んでいた時に、米国西海岸の大学院の見学に行く際に関空にはお世話になったし、また実際に留学をする際にも関空を使ったのを覚えている。私が関空を利用したのは人生においてそれぐらいしかないが、関空も大きな空港として日本では大事な役割を果たしていると思っていただけに、ロンドンとの直行便がそれほどまでに少なかったことを驚いたのである。政治経済的な観点から、関空はやはり成田空港と比較して影響力が随分と小さいのかもしれない。
昨日は、通称「オルタナティブバンク」と呼ばれるものについて調べていた。それは、金融活動を通じて社会に貢献し、社会の持続的発展を目指す銀行のことを指す。オルタナティブバンクは、別名「エシカルバンク」「ソーシャルバンク」「サステナブルバンク」などとも呼ばれる。
特にドイツやオランダを中心に、近年欧州ではこれらの銀行の広がりが見えている。融資の与信判断の際には、融資先は再生可能エネルギー、無農薬農業、フェアトレードや他の社会的企業に限られ、核を含めた武器、そして環境に有害な事業を行なっている企業へは融資をしないということが守られている。融資先の業界は、再生可能エネルギー、無農薬農業、フェアトレードに加えて、教育、ヘルスケア、マイクロファイナンスなど多岐にわたっているとのことだ。
オランダで有名なオルタナティブバンクは、トリオドス銀行(Triodos Bank)であり、ここはプライベートバンキングサービスも提供している。融資先·投資先の中でも、オーガニック食品関係の企業へ融資や投資を行なっていることにとても共感しており、ブティック型の老舗のプライベートバンクではなくて、トリオドス銀行のプライベートバンキングサービスの活用も検討したい。
今私が使っているABNアムロ銀行におけるプライベートバンキングサービスにおいても、社会の持続的発展を目指す企業の株式や債権を積極的にポートフォリオに組み込んでいるようなのだが、トリオドス銀行の理念と実践にはより共感するものがある。
トリオドス銀行以外も、ハーグに拠点を置く、NN Investment Partnersという投資ファンドも社会の持続的発展を目指した理念に基づいて投資活動を行なっていることを知った。小さなアクションかもしれないが、そうした銀行やファンドに投資することによって、社会の持続的発展に微力ながら貢献していこうかと思う。
こうした小さなアクションが拡大されることを望み、社会の幸福に資するような会社がこれからもっと増えてきて欲しいと思う。フローニンゲン:2020/8/28(金)08:05
6168. 社会に蔓延する音響兵器
時刻は午後7時を迎えた。今、穏やかな夕日がフローニンゲンの空に浮かんでいる。
今日は午後に少しばかり雨が降ったが、今は雨が止み、平穏な雰囲気が辺りを包んでいる。本日の正午には、慶應大学の前野先生との対談があった。
先日行わせていただいた中土井遼さんとの対談と同様に、今日の前野先生との対談もとても濃密な時間であり、2時間があっという間に過ぎていったように思う。このように文章の形で自分の考えを書き出していくこともとても有益だが、改めて話すという行為、しかも対話を行うということの力について考えさせられるような時間だった。
人は話すことによって何かが開いていくのだ。言葉を話し、それを聞いてもらえて、対話が実現する時、そこに何かが開くのだ。
話をしている方だけではなく、話を聞いている方にも何かが紐解かれていく瞬間があるということ。それが対話の持つ魅力であり、醍醐味であるように思う。
そよ風の音が聞こえてくるかのような穏やかな雰囲気。夕日の声までも聞こえてきそうな世界が目の前に広がっている。
この世界に満ち溢れる様々な音たち。彼らの存在について考えていると、人工的に生み出された「音響兵器(sonic weapons)」のような音たちはなんとかならないものかと考えてしまう。
例えば、車のクラクションや工事の音などは、間違いなく心身に悪影響を及ぼすであろう。おそらくそうした実証研究の成果はすでに出ているはずなのだ。それでもこの社会には音響兵器的な悪音が至るところに存在している。
科学でそうした音の悪影響が判明したところで、それが社会実践に適用されないのであれば、科学とは一体なんだろう。真の領域とは一体なんであろう。
いやそもそも、あのような音を心地良いと感じる人はいないはずであろうから、ああした音の生みの親は善意識が欠落していたのではないだろうかと思ってしまう。そして、そうした音を当たり前のものとして受け止める私たちの善意識もいかほどだろうか。
それに対して何も建設的な批判を加えないというのもまた善意識の欠如の現れなのではないかと思う。またそもそも、あのような音は美しくないのだ。
ああした音を美しいと思う人が一体何人いるだろう?いないのであれば、なぜあのような音を生み出すのか、そしてまた私たちはなぜあのような音が存在していることを許容するのだろうか。
ここには今度は美意識の欠落も垣間見える。そうなってくると、この世界は真善美に関する意識のどれもが欠落している、ないしは極めて未熟なのではないかと思ってしまう。
夕方に降った夕立のおかげで、季節は秋に入ったが、依然として青々としている街路樹たちが黄金色に輝いている。その輝きの音。それは「肉耳」では聞こえない。だが、「心耳」や「魂耳」を通じてであれば、きっと街路樹の葉の輝きの音が聞こえるはずなのだ。
ヘンリー·デイヴィッド·ソローやジャン·シベリウスが営んだような森の中での生活。その実現に向けて静かに人生が進んでいく。
森の中の虫の音や小鳥たちの鳴き声は、脳波をアルファ波にし、リラックスをもたらしてくれる。自分にとっては穏やかな波の音も好きだ。
自然音の豊かさの中で生活すること。そしてそうした生活を通じて得られたものをこの社会に還元していくこと。それを近い将来に実現させよう。いや、それはもう実現させようという意思が介入するまでもなく実現されるだろう。
心身に悪影響を与えるであろう数々の人工音の中で、車のクラクションの音について少しばかり考える。クラクションは、クラクションを押す方も聞く方も不快な気持ちにさせる。
聞く方は通りかかった歩行者や近隣住民などを含めると、より大きな関係者を巻き込むことになる。近くの動植物や微生物たちまで考慮に入れれば、その害がどれだけ大きいか想像できるのではないだろうか。
クラクション以外にも、救急車やパトカーの音もなんとかして欲しい音である。もちろん、それらの音には社会的な機能があることは確かだが、そうだとしてももっと別の音でいいように思えてくる。
いっそのこと、車のクラクションは、ベートーヴェンの『交響曲第5番(運命)』の出だしの音(「ジャジャジャジャーン」)にしてしまったり、救急車やパトカーの音はあえて心を急かし、かき乱すようなあのような音ではなく、せめてグリーグの『抒情小曲集 第8集:トロールハウゲンの婚礼の日』のサビの音にならないだろうか。
この社会に蔓延する音響兵器的な悪音。それらは私たちの心を不必要に攻撃的にしたり、不安にさせたりする。音というのは抗うことができない形で私たちの心身の中に入ってくるのだ。そうした音が悪音であっていいはずはない。そうではないだろうか。
私たちの心は、社会的に作られた音によって支配され、蝕まれている。このテーマについては、本日届けられた“Musical Truth”という書籍の中で詳しく考察されているはずだ。ここからまた考えを深めていこう。フローニンゲン:2020/8/28(金)19:45
6169. 暴力的な声・治癒と変容をもたらす声/無自性と悟り/数字の「3」
時刻はゆっくりと午後8時に近づいている。秋を迎え、日が沈む時間が早くなったとは言え、8月末のこの時期は、この時間帯の外はまだ明るい。完全に日が沈むのは午後9時頃だと昨日改めて確認した。
先ほどは、この社会に蔓延している音響兵器的な音について書き留めていたように思う。車のクラクションや工事の音を含めて、心身に不快感をもたらす音はこの世界に多く存在している。
歴史的には、ナチスドイツがワーグナーの曲を用いて民衆の心をコントロールしていたことは有名な話だし、今でも政治的なプロパガンダやビジネスのマーケティングの一環として様々な音が意図的に用いられていることはよく知られたことだろう。
そうしたこと以外にも、普段私たちが声帯を通じて発している声にも意識を向けてみる必要があるのではないかと思う。私たちの声が、時に音響兵器的になっていないだろうか。
人は言葉で人を傷つけるだけではなく、声のトーンや声色によっても人を傷つけてしまうのだ。それは身体や脳の神経回路に文字通り傷痕を残すだけではなく、心にトラウマという傷も負わせる。
私たちが日々発する声は、癒しや変容をもたらしてくれる声だろうか。私たちが日々意識できることはたくさんある。
私たちは孤立した形で実体として存在しているのではなく、あらゆるものとの関係性の中で存在しているということ。それそのものとして単独で存在するものは何もないという「無自性」の考え。今日の自分もそれを実感させてくれる形で生きていた。
今日という日をそのように生きることができたということ。そのように生かしてもらえていたということ。それに対して感謝の念が湧き上がる。
夕日は相変わらず西の空に浮かんでいるが、空の大部分は雨雲で占められている。雨雲の向こう側にある青空。青空の向こうにある成層圏。成層圏の向こう側に広がる大宇宙。
悟りとは、そうした大宇宙を見ようとすることではない。自分自身がそうした大宇宙に他ならないと気付くこと。それが悟りの一つの知覚体験なのではないだろうか。
悟りとは、一点の雲もないような青空を見ようとすることではなくて、自分がそうした青空そのものであることに気づくことだ。
書斎の目の前には街路樹があって、それがそよ風に揺られている。自己は街路樹であって、そよ風なのだ。そよ風が吹き抜ける始点から終点の時間もまた自己であり、それらの時間が過ぎ去った後の時間もまた自己である。
そう言えば先日、数字の「3」が出てくる夢を見ていた。私はそれを、「真善美」の3つの領域に対する自分の関心の現れ、及びそれら3つの領域の包括的な探究と実践に導くものだと解釈していたように思う。
先ほど偶然、敬愛するバッハもまた3という数字をこよなく愛していたことを知った。バッハにとって、3という数字は「父と子と聖霊」の三位一体を表していたのである。
本当に偶然だが、先ほどバッハのゴルトベルク変奏曲が頭の中に流れていて、バッハは3という数字を一番意識して作ったのがこの変奏曲だったそうだ。
3という数字とバッハのとのつながり。このあたりもまた見過ごせない何かがありそうだし、その他にも何か繋がりがあるような気がする。そう、自己が他の全ての存在と深層的に繋がっているのであれば、無数のシンクロニシティ的つながりをそこに見出すことができるだろう。フローニンゲン:2020/8/28(金)20:01