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5945-5948: アートの国オランダからの便り 2020年7月1日(水)

July 3, 2020

No.849 空の始原_The Origin of the Sky

 

本日の言葉

Each must seek personally, inquire personally, understand personally and awaken personally. Zen proverb
 

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本日生まれた10曲

 

 

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タイトル一覧

5945. 今朝方の夢

5946. コミュニケーションの商品化&ある画家の方との出会い&ロイ・バスカーの哲学思想への関心

5947. 対象から離れることと本質に近づくこと:現代の教育や人財育成で喪失してしまった発想

5948. ロイ・バスカーへの共感・共鳴

 

5945. 今朝方の夢

 

時刻は午前6時を迎えた。今朝もまたうっすらとした雲が空を覆っていて、この時間帯はとても寒い。日中も気温がそれほど上がらず20度くらいになるようだ。今日は午後に、近所のスーパーに買い物に出かけようと思っていたのだが、その時には少し暖かい格好をした方が良さそうだ。

 

昨日、ヨガ療法士の友人のブログを拝見した時に、興味深い記述を見かけた。ヨガの世界では、この世界に遍在している生命エネルギーのことを「絶対者ブラフマン」と呼んでおり、「絶対者」という言葉は人を感じさせるが、それが示していることは、実は「場=フィールド」なのだという点をその友人は指摘していた。

 

自己を超えた大いなる存在も含め、目には見えない人知を超えたものたちは等しく場的なものとして存在しているのではないかと私も以前より思っていたこととつながる指摘だった。友人はその着想を、井筒俊彦先生の書籍を読むことを通じて得たとのことだったので、尚更共感する指摘であった。

 

今、自分の人生が肯定的な方向に大きくうねりを上げて進んでいるのを感じる。こうしたうねりも、自分個人の意識空間が生み出しているというよりも、それを超えて、集合的な意識にまで触れるような形で、巨大なフィールドの働きによってもたらされているのだと思う。その産物がまさに運であり、縁なのだろう。

 

自分は今、運と縁の巨大な織物の中に抱擁されている。その確かな感覚がある。

 

これには毎日祈るような感謝の念を捧げていく必要があるだろう。そうした祈りの心と感謝の心がある限り、私は運と縁の豊かな織物の中に抱擁され続けるだろう。

 

ここ数日間は印象的な夢を朝方に見ていた。今朝方も夢を見ていた。

 

夢の中で私は、自分が実際に通ったのとは異なる高校にいた。そこはとてもモダンな雰囲気を醸し出す校舎を持っていて、また立地に関しても海が近くにあるという素晴らしい学校だった。

 

生徒も先生も全て日本人なのだが、どういうわけか、校舎はヨーロッパのどこかの国にあった。そこで流れている時間感覚や落ち着きから察すると、大陸ヨーロッパではなく、北欧のどこかの国であり、しかも海があったから、内陸部ではないことがわかる。

 

私はある教室で理科の授業を受けていた。どうやら私は前日遅くまで何かに打ち込んでいたらしく、体調がそれほど優れないようだった。実際のところは授業を休むほどでななかったのが、授業に出るのがとても億劫だったので、授業開始と共に、先生に今日はもう帰宅するという旨を伝えた。

 

すると先生は、今日を含めて、私は既に5回ほど授業を休んでいると述べた。それに対して私は、「単位の取得に際して、あと何回休めますか?」と尋ねたところ、「合計で14回まで休める」と先生は述べた。

 

それを聞いた時、随分と休めるのだなと思い、それでは安全を期して12回まで休もうと思った。私は、まだまだ授業を休めることを知ってとても嬉しくなった。その感情が芽生えた時、既に私は教室の外にいて、帰宅準備を始めていた。

 

いざ帰宅しようとすると、西海岸時代の年上のアメリカ人のルームメイトが鬼のような姿になってその場にいた。彼は確かに海軍出身であったから、規律にはうるさい人間ではあったが、根は優しい。そんな彼が鬼の姿になっていて、私は少し驚いた。

 

彼は私に声をかけてきながらも、同時に私を追いかけているようでもあった。言葉と同時に、何か攻撃的なエネルギー波のようなものも彼は口から発しており、私はそれに当たらないように注意していた。

 

会話をしながら逃げるというのもおかしなことだが、実際にはそうするより仕方なかった。私も両手から特殊なエネルギー波を出すことができるらしかったが、それを彼にぶつけるのではなく、校舎の壁などにぶつけて、そこに抜け穴を作ってそこから逃げていた。

 

最後に、窓ガラスにエネルギー波をぶつけ、私は3階から地面に向かってジャンプをし、エネルギー波を地面に放つことによって着地の衝撃を緩めた。そこからの逃走はスムーズであり、気がつけばもう彼は私を追いかけていなかった。

 

今朝方はそのような夢を見ていた。実際には、あと1つ大きなテーマの夢があったのだが、それについてはもう忘れてしまっている。

 

そちらの夢では、ある女性友達が現れていたことは確かである。彼女と何か会話をしており、それは特に感情的なチャージのない、比較的中立的な内容だったように思う。フローニンゲン:2020/7/1(水)06:44

 

5946. コミュニケーションの商品化&ある画家の方との出会い&ロイ・バスカーの哲学思想への関心

 

時刻は午前7時に近づきつつある。今し方、ふと自宅の目の前の通りを眺めたら、ジャンバーを羽織って自転車を運転している女性の姿を見かけた。確かに今日はそれくらい寒い。

 

昨日の日記にもこれから数週間の気温について書き留めていたように思うが、数週間を超えて、7月と8月の双方において、暑さを感じる日が今年はほとんどなさそうだということを月間予報から知った。

 

そこからさらに先の9月についても調べてみると、当然ながら9月からは一段と気温が低くなっていた。今年はやはり冷夏なのかもしれない。

 

昨日は街の中心部に行き、かかりつけの美容師のメルヴィンの店と、その近くにあるコーヒー·お茶専門店に立ち寄った。そこでも改めて、この国では人とのコミュニケーションを商品化していないことに気持ちよさを感じた。

 

現代社会においては、笑顔を含めた感情までもが商品やサービスの一環として組み込まれてしまっており、人間が深層的な部分で触れ合う機会がますます無くなってきてしまっている。そうした潮流に与しない形で、この国では笑顔や会話のやりとりが実に自然であり、見知らぬ人と外でちょっとした挨拶を交わすときや、店で店員と話す際に、人間と交流しているという実感が湧く。

 

一方で、笑顔や感情を含め、コミュニケーションが商品やサービスの中に組み込まれている文化の中で人と会話をすると、どこか生身の人間と会話をしている実感が湧かないことがある。このあたりは、人間性とは何なのか、人間性の喪失と復権に関するテーマともつながってきそうである。

 

一昨日に、この秋の講演会に向けて、対談相手を務めてくださるある画家の方とオンラインミーティングをさせていただいた。昨日も改めて、そのミーティング内容について振り返っていた。

 

そもそも、私はなぜその方に関心を持ったのかという点について改めて考えていたのである。1つには、2つの意味での共感·共鳴があったように思う。

 

1つ目の意味としては、その方の著書に書かれていた幼少時代の幾つもの体験が自分の体験と外見上は異なれど、体験内容として非常に重なるものがあり、同様の体験を経て成長してきたのだという意味における共感である。ここではその方の具体的にどのような体験が自分のどのような体験と重なっていたのかについて書くことはしないが、幼少時代に置かれていた精神的状況や、将来の自分に対する千里眼的な力に関してはとても重なることがあった。

 

今から数年前に偶然ながらその方の作品を最初に目にしたときに、私は思わず、「同じものを見ている人がいるんだ」と呟いた。それが2つ目の意味としての共感·共鳴である。

 

もちろん、全く同じものが見えているわけではなく、見ている世界、あるいは見ている認識次元が同じであるということに大いに感銘を受け、ひどく共感の念を持ったことを覚えている。こうした2つの意味での共感·共鳴をする人というのは現代社会にほとんど存在しておらず、その方の存在を知ったときにはとても嬉しく思ったことが懐かしく蘇ってきた。今回の対談講演会が実現したのも、こうした共感·共鳴と無縁なものではないだろう。

 

昨日はその他にも嬉しい出会い、ないしは再会があった。私は長らく、成人発達理論に大きな貢献を果たしてきたオットー·ラスキー博士に師事をしていて、彼がテオドール·アドルノやマックス·ホルクハイマーなどのフランクフルト学派の哲学者だけではなく(実際にラスキー博士はこの2人の碩学に師事をして哲学の博士号を取得している)、「批判的実在論(critical realism)」を提唱したことで有名なイギリスの哲学者ロイ·バスカーの仕事をよく言及していた理由が当時はいまいちよくわかっていなかった。

 

というよりも、当時の私は彼らの哲学思想にほとんど関心を持っていなかったと言った方が正確かもしれない。ところが、昨日何か天啓的な閃きのような形で、ロイ·バスカーの仕事を辿っていこうと思ったのである。

 

バスカーは、インテグラル理論のコミュニティーの一部や科学哲学のコミュニティーではよく知られている哲学者であり、バスカーもまた統合思想の持ち主であり、ウィルバーの思想とも相通じるものがありながら、ウィルバーにはない哲学思想も持っている。

 

バスカーについては確かに以前一度、彼の書籍を読み進めていこうと思っていたのだが、そのときにはそれを行うことをしなかった。だが昨日、それを行うのは今だという確信めいたものが降ってきた。バスカーの仕事を辿り、そこから自分の思索を深めていくのは今だと思ったのである。

 

そこから私はいつものように、バスカーの主著を調べ、自分の関心を引くものについては全て購入しようと思った。ちょうど7月にはその他にも音楽理論関係の書籍や、霊性(スピリチャリティ)の物質化に関する問題を提起している思想家の書籍などを購入しようと考えていた。今のところ、明日か明後日に購入する書籍には下記のようなものがある。

 

1. Scientific Realism and Human Emancipation

2. Philosophy and the Idea of Freedom

3. Dialectic: the Pulse of Freedom

4. From East to West: Odyssey of a Soul

5. Creativity, Love and Freedom

6. Reflections on Meta-reality: Transcendence, Emancipation, and Everyday Life

7. From Science to Emancipation: Alienation and the Actuality of Enlightenment

8. Metatheory for the Twenty-First Century: Critical Realism and Integral Theory in Dialogue

9. Fathoming the Depths of Reality

10. The formation of critical realism: a personal perspective. 

11. Enlightened Common Sense 

12. Roy Bhaskar: A Theory of Education by David Scott

13. Critical Realism: Essential Readings

14. Cutting Through Spiritual Materialism

15.The Craft of Musical Composition: Theoretical Part - Book 1

16. The Craft of Musical Composition: Book 2

17. Traditional Harmony, Book 2: Exercises for Advanced Students

18. A Composer's World: Horizons and Limitations

19. Twentieth-Century Piano Classics: Eight Works by Stravinsky, Schoenberg and Hindemith

 

この夏は、美学、霊性学、群衆心理学などの書籍を読むことに並行して、ロイ·バスカーという1人の哲学者の仕事も丹念に辿っていきたい。フローニンゲン:2020/7/1(水)07:14

 

5947. 対象から離れることと本質に近づくこと:現代の教育や人財育成で喪失して    しまった発想

 

今日は朝からとても寒い。室内では長袖長ズボンを着て過ごしている。

 

先ほど、ベジブロスで作った具なしの味噌汁を飲んだ。それは毎朝飲んでいるものなのだが、いつも以上に味噌汁の温かさを感じることができた。今日から7月だということが本当に信じら得ず、午前中は温かいカカオドリンクと、自らの手で豆を挽いた温かいコーヒーを味わおうと思う。

 

先ほどふと、自分と日本語の関係について考えていた。自分の中で日本語が読めるようになってきたとふと思ったのは20代後半のことだった。それはアメリカから日本に1年間ほど戻ってきた時のことだったので、29歳ぐらいの頃だったように思う。そこから日本語を味わうことに目覚めた自分が生まれたのをはっきりと覚えている。

 

それまでは日本語を見る、ないしは眺めることはできても、それを味わうことまではできなかった。そこには母国語への存在的(あるいは実存的)かつ積極的な関与というものがなく、どこかいつも言葉が自分の外に浮かんでいるような感じがあったのだ。しかしアメリカら戻ってきて、改めて日本語に触れたときに、自分の中で何かが変わっていることに気づいた。

 

そこではもう以前のように、日本語が他人のようではなく、本当に自分の内側に響き、浸透してくる存在になっていたのだ。そこからようやく私は日本語を読めるようになったのだと実感し、そこから自分の言葉を見出し、それを彫琢するプロセスが始まったのだと思う。

 

こうした現象がなぜ起こったのかについては、その要因は多数あるだろう。その中でもやはり、アメリカに渡って4年間ほど日本語空間から離れて生活をしていたことは大きなものだと思う。

 

対象の本質に近づくためには、一度対象から離れてみる必要がある。そのようなことをまさに身をもって体験したのが上記の話である。

 

日本語から一度大きく離れ、徹底的に英語空間の中に浸ろうとしていた自分があの当時にはいて、日本語空間からの脱却が、後々になって日本語空間の深層部への接近を可能にしたのだと思う。

 

対象から一度離れることによって対象の本質に迫るという現象は、日本語だけではなく、自分の諸々の探究や実践においても見られる現象だ。離れることと近づくことの対極性は、人間発達の肝にあるのだろう。

 

味噌汁を飲みながらそのようなことを考えていた。そこから、「to someone」「for someone」「with someone」の違いについて考えていた。これは教育においても、成長支援においても大事なことのように思われる。

 

自分の中にあった問題意識としては、現代社会の教育や人材開発の背後には、絶えず「to someone」の発想が優位であり、それが「for someone」という発想に梱包されているのではないかという考えがある。

 

例えば、「あなたのためを思って、成長のためにはこんなことをしたらいい」という発言はよく見られるものかと思う。ここではまさに、「for someone」という「あなたのために」という名のもとに、結局のところは、その背後には自分や組織の利益が隠れていて、そうした自分の利潤を追求する隠れた発想から何か提言や助言を相手にする(to someone)という構造が見られるように思う。

 

果たしてこれは教育的なのだろうか。果たしてそれは成長や発達を支援することをもたらしてくれるのだろうか。

 

現代社会の教育や人財開発の背後には、大抵、「~のために」という言葉が隠れていて(それはsomeoneだけではなく、somethingも含まれているのではと新たに気づいた)、そうしたforという言葉には欺瞞性が絶えず内包されているように思えてならない。

 

相手のためと言いつつ、それは自分のためであり、何かのためと言いつつ、それは自分が本当に求めるようなものではない。そのように考えてみると、現代の教育や組織内での人財育成というのは、欺瞞性で覆われている、ないしは欺瞞の産物(欺瞞の権化)だと言えるかもしれない。

 

こうした問題提起は、教育哲学者のザカリー·スタインがまさに行っており、彼は教育や人財育成の根幹には「with someone」の発想が不可欠であると指摘している。まさにそうだと思う。

 

「to」や「for」のように、一方向のベクトルしか持たない発想の教育的関与には、必ずベクトルの起点にある人間の欲求や利益が色濃く混入してしまう。一方で、「with」という発想には、双方向性があり、真に学びや成長をもたらしてくれる教育のあり方には、相互発達的な発想、つまり教える者(導く者)と教えられる者(導かれる者)という外見上の区別があったとしても、お互いが共に学び合い、啓発しあっていくという関係性が必ずあるはずである。

 

昨日、かかりつけの美容師かつ友人のメルヴィンが、「近年の欧米社会では、「I」を起点にした形でしか、つまり自分のことしか考えられない形で行動する人が増えてきているように思うが、日本はどうか?」と尋ねてきた。メルヴィンの質問に対する回答は言わずもがなであった。

 

和の精神の喪失。本来我が国には「with」の発想が伝統的に存在していたはずなのだが、一体いつからその精神を失ってしまったのだろうか。そうした大切な精神は、私利私欲を増大させる金融資本主義的·物質還元的な発想と共に(with)に失われてしまったのだろうか。フローニンゲン:2020/7/1(水)08:14

 

5948. ロイ・バスカーへの共感・共鳴

 

時刻は午後7時半を迎えた。7月の最初の日が充実感と共に終わりに近づいている。今日は1日を通して非常に肌寒く、室内では長袖長ズボンで過ごす時間が多かった。明日は今日もよりも気温が低く、雨が降るらしい。

 

本日は創作活動に並行して、哲学者のロイ·バスカーの仕事を辿っていた。明日か明後日中にバスカーの書籍の大半を購入しようと思っており、早く彼の思想を学びたい気持ちでいっぱいである。

 

ロイ·バスカーは元々は、経済学の博士号を取得しようとしていたところから学者としてのキャリアをスタートさせた。経済学に関する博士課程に在籍中のバスカーは、「近代経済学が発展しても、世界から貧困がなくならないのはなぜなのか? 」という非常に的を射た問いを己に投げかけた。

 

私はこの問いに大変共感をする。というのも私自身が、「発達科学が発展しても、人間やこの人間社会が未熟なままであるのはなぜなのか?」という問いや、「この世界には芸術作品を含めて美しいものがたくさんあるのに、世界はなぜ美しくならないのか?」という問いを持っているからである。

 

バスカーはそうした問いから探究を出発させ、経済学ではなく哲学の探究に舵を切った。しかもそれは、上述のバスカーの根源的な問いをもとにしたものであるがゆえに、実践哲学と呼べるようなものである。

 

バスカーにはすでに大きな啓発を受けており、自分自身が実践美学や実践霊性学とでも呼べるべきものに関心の矛先が強く向かっていることに気づく。本来、美学にせよ、霊性学にせよ、美や霊性というものがいかに私たち自身や社会と関わっているのかという問いと切っても切り離せないものであるがゆえに、それらは常に実践的なものであるべきなのだと思う。

 

この数年間、「成人発達理論」という名称を超えて、それは「成人発達学」とでも呼べるような学問体系を根幹に据えながら、多くの学問分野を横断的に探究している自分がいる。私が探究しているのは、究極的には人間存在とは何であり、人間と社会がより善く·美しく発達していくというのはどういうことであり、それはいかようにして実現されるのかということなのかもしれないと改めて思う。

 

そうなってくると、人間存在や社会というのは複雑であるがゆえに、必然的に学際的な探究をせざるを得ないということなのだろう。明日からも引き続き、ロイ·バスカーの仕事を辿り、文献購入リストの書籍を早く注文しようと思う。フローニンゲン:2020/7/1(水)19:50

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