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5350-5353:フローニンゲンからの便り 2019年12月17日(火)


本日生まれた11曲

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タイトル一覧

5350. 時の大いなる力

5351. 摂取と自己形成:今朝方の夢

5352. 魂の憩いの場の創出に向けて:静寂さと同一化し始める自己

5353. 内的静寂さを通じて生きること

5350. 時の大いなる力

時刻はちょうど午前3時を迎えた。とても静かな闇の世界が目の前に広がっている。それは自分の心を心底落ち着かせてくれる。そして、最大のくつろぎをもたらす。

闇とはもうすっかり親友関係を築けたようだ。こうした関係を築くことができてとても嬉しく思う。

この関係が築き上げられるまでに4年ほどの時間がかかった。それは「4年も」という表現もできるかもしれないが、「わずか4年で」という風に表現することもできるかもしれない。

とにかく、焦らずに時間をかけてゆっくりと育んできた関係がここにある。時の発酵過程にさらした真の関係性がここにある。

私たちは生きていく中で種々の課題や葛藤を抱えるが、それらの多くは、時の発酵過程の中に晒されて初めて解決されていくものなのかもしれないと思う。時の持つ力は偉大である。そしてこの時の力というのも、結局は自分の内側の力であることを忘れてはらない。

晒す時間というのは外的な時間ではなく、自分の内側の内的な時間であるからそうしたことが言える。私たちの内面領域の持つ広さと深さには、ただただ驚かされてしまう。時の持つ力に関してもそうだ。

今朝目覚める時、「しまった、10時間以上寝てしまった!」と思った。10時間ぐらい眠った時に得られるような、心身の全快感、極度な回復感を味わっている自分がそこにいた。

だが時計を確認してみると、午前2時過ぎであり、昨夜の就寝が午後10時前であったことを考えると、10時間どころか、その半分の5時間も眠っていなかった。

目覚めの良さが驚くほどだったので、そこで起床することにした。それ以上眠ると寝過ぎであり、まさに惰眠を貪ってしまうと思ったからである。

自分の身体はやはり完全に生まれ変わったようだ。この間の14日間の断食を通じて間違いなく新たな身体に生まれ変わった。

内臓の機能が本来の力を取り戻し、消化も以前よりも速やかになされるようになり、それに付随して栄養の摂取力のようなものも上がっているように感じる。良質なものを少量摂取する生活をこれからも心がけていこう。

こうして午前2時過ぎに起床してみると、1日は本当に充実感と幸福感に包まれたものになる。自分の取り組みに十全に没頭できること。しかもそれを自分の心ゆくまで長く味わえることほど大きな喜びはない。もはや喜びが喜びに溶解してしまうほどの喜びがここにある。

今日は午前中に1件ほどオンラインミーティングがある。気がつけば、再来週の今日は、マルタ共和国に向けての出発する日だ。年末年始の旅行を楽しみに、今日もまた自分の取り組みを前に少しばかり進めようと思う。とにかく今日も素晴らしい1日になる絶対的な予感がある。フローニンゲン:2019/12/17(火)03:17

5351. 摂取と自己形成:今朝方の夢

時刻はゆっくりと午前3時半に向かっている。先ほど、チアシードを入れた小麦若葉ドリンクを飲み終え、今はソイプロテインを白湯に溶かし、そこに大麦若葉を入れたドリンクを味わいながら飲んでいる。

昨日は寝室の気温が高かったのか、それとも湯たんぽを最後まで足元あたりに入れておいたためなのか、起床した時に随分と寝汗をかいていた。失われた水分を補給するかのように、先ほどの飲み物と今飲んでいる飲み物が体に染み渡っていくのを感じる。この感覚を大切にしよう。

体に取り入れるものを味わう感覚。そしてそれがまさに自分を構成していくというその感覚を味わおう。

食べるものは本当にその人を作る。それは目に見える物質的な食べ物だけに限った話ではないのかもしれない。まさに情報に関してもそうだろう。書籍に関してもそうだ。

何を知性の養分とするかによって、その人の知性は作られていく。自我の構成についても考えてみると、文化や環境からのフィードバックは極めて大きい。どこの国のどのような環境に住むのかが、その人の自己形成において大きな影響を及ぼすということは言わずもがなかもしれない。

それでは、今日も今朝方の夢について振り返り、早朝の作曲実践に取り掛かりたい。午前10時から行われるオンラインミーティングまでまだ6時間半ほどの時間があるため、そのミーティングを迎えるまでに集中して作曲実践や読書に取り掛かれば、その日に取り組みたいことの大半、ないし全ては午前中で達成できてしまいそうだ。とにかく一つ一つの取り組みに集中していこう。

夢の中で私は、どこか地元を思わせるような場所にいた。地元にある小さな山のウォーキングロードを歩いている自分がそこにいた。しばらく山道を歩いていると、ある時、広々としたスペースに出くわした。そこでは何人かの見知らぬ人たちが楽しげにダンスを踊っていた。

彼らの踊りを見ていると、とても楽しそうであったが、私はそのまま彼らの目の前を素通りしようと思った。すると、1人の女性に呼び止められ、私は彼女と少しばかりダンスを踊ることになった。

その女性は日本人なのだが、183cmぐらいの身長があり、爪先立ちできるようなシューズを履いていたため、さらに背が高く思えた。私はダンスの経験がないので、その女性の手ほどきを受けながら、彼女の誘導に従う形でダンスを踊った。

踊り始めてみると、ことのほか面白く、いつまでも踊りを踊っていたいという感覚になった。だがしばらくすると、そうした思いとは裏腹に、突如夢の場面が変わった。

次の場面では、私は中学校1、2年生の時に担任を努めてくださった先生と話をしていた。何の話か忘れてしまったが、学校生活の話か進路に関する話だったかと思う。

先生との話を終えた後、そのまま先生の英語の授業を受けることになった。先生は少し口下手なところがあり、それが授業の中にも現れていた。

最初の数分間ほど先生の授業を聞いたところで、そこからもう授業を聞くのはやめて、自分の空想世界の中に浸ることにした。そしてその中で楽しみながら自分の考えたいことを考え、自分の学びたいことを学ぶことを行っていた。

しばらくして我に帰ると、私は大きな畳部屋にいた。見ると、そこには小中学校時代の男女の友人の多くが綺麗な列をいくつかなして、全員正座で座っていた。彼らと対面する形で座っていたのは、1人の女性友達(NI)だった。

どういうわけか、彼女と私は結婚したばかりのようであり、彼女はみんなの前で新婚生活について語っていた。最後の方で、就寝時間に関する話があり、話の内容としては、下に住んでいる人が寝てから就寝するというようなことを述べていたのだが、彼女の日本語がいまいちわからない箇所があり、それは自分だけではなく、横に座っている友人にとってもそのようだった。彼女が述べたよくわからない日本語の意味について考え始めたところで夢から覚めた。フローニンゲン:2019/12/17(火)03:44

5352. 魂の憩いの場の創出に向けて:静寂さと同一化し始める自己

——明瞭に語られた言葉は死ぬことがない——エミリー·ディキンソン

時刻は午後4時を迎えた。つい今し方、街の中心部のオーガニックスーパーから自宅に戻ってきたところである。

ここ最近は雨が降ることが多く、雨の温もりのおかげか、それほど寒くない日が続いている。今日は最高気温がなんと12度ほどもあり、先ほどジョギングがてらスーパーに向かっていると、少し汗をかくほどであった。

おそらくもうしばらくこれくらいの気温の日々が続き、年末あたりからぐっと冷え込んでくるだろう。寒さの観点で言えば、そこからがフローニンゲンの本格的な冬の始まりだと言えるかもしれない。

スーパーからの帰り道、アイルランドの詩人ウィリアム·イェイツが詩作を通じて、自他の魂の憩いの場を作ろうとしていたことに思いを馳せていた。それは自分の作曲の意図と全く同じである。

作曲実践を通じて、日々自らの魂が治癒され、安らかになっていくのを感じる。魂が徐々に変容を遂げていき、もちろんそれに伴って新たな課題に直面するのだが、そうした課題もまた曲を作るという行為そのものと、生み出された曲による治癒と変容作用とによって、それらの課題が徐々に乗り越えられていく。そのようなことを実感している日々であり、こうした現象が自分の中だけで起こるのではなく、イェイツが考えていたように、他者の中でも起こるようにしていくのか創造活動に営む者が果たすべき役割なのかもしれないと思う。

今日もこれまでのところ、9曲ほど曲を作った。入浴と夕食の準備に向けてまだ時間があるので、もう1つか2つほど短い曲を作れそうだ。

今朝方にふと、作曲にはやはり英作文を作るような楽しさがあることを改めて発見した。中学校や高校時代を振り返ってみると、英作文を作ることが好きな自分が確かに存在していて、それが今もなお自分の中に生き続けていることを感じる。

作曲にせよ英作文にせよ、それらはどちらも共通して“composition”という言葉が当てられるのはうなづける。その単語をじっと眺めていると、文字が並び替えられ、“cosmos”という単語が想起された。

言葉を生み出していく作文と、音を生み出していく作曲は、もしかするとコスモスを生み出す行為に他ならないのかもしれないと思う。あるいは、コスモスとつながり、コスモスと調和を図りながら、コスモスのさらなる創造に寄与していくことなのかもしれない。

静かな気持ちの中、夕方のこの時間帯に日記を綴れる幸福。最近は、自己が静寂さに包まれるというよりも、自己が静寂さそのものに変化し始めているのを実感する。それは、これまでの欧州生活では見られなかった変化である。そうした状態の中で、自分の言葉を静かに紡ぎ出していこう。

形に残した言葉や音は決して死ぬことはない。それらが静寂さと一体となった自分の魂から出てきたものでありさえすれば。フローニンゲン:2019/12/17(火)16:15

5353. 内的静寂さを通じて生きること

時刻はちょうど午後の7時を迎えた。つい先ほど夕食を摂り終えた。今日の夕食の量は、腹五分ぐらいだろうか。いつもそれくらいの量の夕食を食べれば十分であり、それくらいの量のおかげで消化にエネルギーを使う必要がなく、結果として朝早くに起床することができ、1日を通じて自分の活動に十全に打ち込むことができているのだと思う。些細なことだが、こうした少しの心掛けで、心身に変化があり、日々の充実感や幸福感が変化することを実感している。

今年の冬は、私に静けさの本質を教えてくれているのかもしれない。そのようなことを思った。

夕方に街の中心部に買い物に出掛けた時、いつも以上に辺りが静かであるように感じた。それは外部環境が静かだったというよりも、自分の内側が静かだったのだと思う。

今年の冬はどういうわけか、静寂さに包まれる形で、日々のほぼ全ての時間を黙想的な意識の中で過ごしている。そしてそれは、冬の進行に応じて徐々に深まりを見せている。

諸々の制約から自己を解放させること。そうした制約は思想的なものや感覚的なものまで含めて実に数多くある。そうした制約に気づきの意識を与え、そこからの解放を実現させていくときに、そもそもそうした制約へ気付くための内面の落ち着きが必要であるように思えてくる。まさに、内面世界の湖面に波を立てないようにして、湖面に映し出される諸々の制約を見ていくのである。

内面世界の湖面に波を立てないためには、兎にも角にも静寂さの中にいる必要があり、静寂さの本質を見出すことが大切かと思う。今、私は徐々にそれが見えてきている。

詩人のリルケがかつて、「バラの中の静けさ」を感じていたように、静けさを絶えず感じながら日々の生活を営んでいこう。いや、静けさを感じるというよりも、静けさと一体となった生活を実現させていこう。

静けさと一体となった生活は次のステップかもしれない。そこを見据えた上で、まずは静けさを大切にしながらそれを感じていこう。

静けさを味わう生活。先ほどの夕食もまさにそうだった。

今年の冬からは、静寂さがなんたるかを教えてもらっているように思う。自分の内的時間を通じて生きるだけではなく、自分の内的静寂さを通じて日々を生きること。

自分にとって大切なことはすべて、静寂さを根源にして生まれてくるものであるように思える。人間として生きることに伴う諸々の制約。現代という時代に生きることに伴う種々の制約。そうした囚われから解放されていくためには、静寂さと一体となる形で自己を見つめ、生活を営んでいくことが不可欠だ。そのようなことを気づかせてくれる夜である。

そういえば今朝方にも、静寂さと関連して、フィンランドの森の中で生活をするようになったら、家の脇に作曲小屋を作ろうと思った。作曲小屋を持っていた作曲家を何人か知っているが、その中でもエドヴァルド·グリーグの作曲小屋は印象的であった。

グリーグが長く過ごし、生涯を閉じたノルウェーのベルゲンの街に行き、実際にグリーグの自宅兼博物館に足を運んだことが懐かしい。そこで見た、海を眺めることのできる作曲小屋の姿が忘れられない。グリーグのように、いつか私も静かな環境の中で、さらに作曲小屋を作る形で、作曲を含め、自分の創造活動に日々打ち込んでいきたいと思う。

ポツポツと小雨が降り始めた。今夜は小雨が窓に当たる音を聞きながら、夜の静けさを味わおう。静けさを愛し、それを味わうことを積み重ねていくことが、絶えず内的静寂さを通じて生きることにつながるはずだ。フローニンゲン:2019/12/17(火)19:14

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