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5269-5273:フローニンゲンからの便り 2019年11月30日(土)

December 2, 2019

本日生まれた11曲

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タイトル一覧

5269. 不気味な夢に起こされて

5270. 旅へと導くもの:地上で生きる真の喜びを求めて

5271. 創造活動とこの世で生きることの喜びの一致へ向かって

5272. 今日からの回復食

5273. 仮眠を通じた体験:ドイツの列車の旅に思いを馳せて

 

5269. 不気味な夢に起こされて

 

残酷な夢によって目覚めたとき、時刻は朝の3:50であり、その後すぐに爆竹が鳴る音が聞こえてきた。そしてその直後にパトカーのサイレンが聞こえた。昨夜も就寝前に一度爆竹が鳴る音が聞こえてきた。

 

年末でもないのに爆竹が鳴るというのはどういうことなのだろうか。何かめでたい事がこの国であったのだろうか。

 

確かに時折子供たちや若者が爆竹を鳴らすことはあるのだが、パトカーのサイレンがその後に続くことはない。爆竹の音は心臓がびっくりしてしまうために好きではないのだが、仮にこの国でめでたい事があり、それを祝う意味での爆竹であれば良い。

 

ただし、あれが爆竹ではなく、銃声だったのなら···。そのようなことを考えると、ちょっと君が悪くなってくる。

 

今、目覚める前に見ていた一連の夢を思い出している。夢の中で私は、水族館が近くにある砂浜の上に立っていた。

 

海の方を眺めると、ちょうどその一角は水族館の管理下にあるようであり、海が柵とネットで囲われていた。見るとそこには何匹ものシャチがいて、優雅に泳ぎを楽しんでいた。

 

私が砂浜を後にし、海岸沿いの通りに停車していたバスに乗り込もうとすると、何匹ものシャチが一斉に浜辺近くに集まってきて、顔を覗かせた。水中で立っているかのように顔を覗かせる姿は可愛らしく、どうやらこちらに向かって別れの挨拶をしてくれているようだった。

 

私はシャチの知能の高さに心底驚かされ、同時に彼らの思いやりの心に感銘を受けた。すると、水族館の係員らしき男性が訓練犬を数匹連れてきて、シャチを海の方に返そうとした。

 

どうやらその時間は、シャチが海での遊びを終え、再び水族館の水槽に戻っていく時間のようだった。しかしながら、係員らしき男性の様子を眺めていると、きちんと水族館の水槽にもどらないシャチは犬に食べられてしまうようだった。

 

また逆に、シャチを食べようと思ってシャチに向かっていく犬はシャチに食べられてしまうこともあるようだった。そんな関係性を見てとったとき、夢の場面が変わった。

 

次の夢の場面では、私は日本人のある投資家の方の自宅にいた。そこは外国にある超高級マンションの上層階であり、そこからの眺めは素晴らしいものがあった。しかし私は、高いところに住むのがあまり好きではなく、自分が住むならせいぜい7階か8階が限度だと思っていた。

 

その投資家の方と私は友人関係にあり、彼は奥さんと一緒に、今からあるテーマについてプレゼンをしてくれることになっていった。部屋を暗くし、パソコンから無線で繋げられたテレビのスイッチが入った。そこにはスライドが投影されており、その投資家の方が話を始めると、動画が流れ始めた。

 

何やら、不慮の事故にあった少女に関する話をこれからしてくれるらしかった。より具体的には、医療ミスに関する実態と医療の杜撰さに関することがテーマになっていた。

 

テレビ画面に流れ始めた動画は、もう見るのも辛いものであった。1歳ぐらいのまだ言葉を覚えたてぐらいの日本人の女の子が、チューブに繋がれ、親ではない付き添いの方の手を借りながら駐車場のようなところを歩いている。

 

どうやらそれはその子にとっての食事の時間のようであり、付き添いの人はチューブを使って、地面をウロウロするアリをその子に食べさせようとしていた。その子はもう普通の食事はおろか、流動食すらも食べられない状態であり、唯一食べられるのが虫のようだった。

 

しかしその子は、「ヤメテヨ。ソンナノタベラレナイヨ!」と覚えたての言葉を使いながら、必死に抵抗している。それでも栄養をつけさせるためか、強引にアリをチューブから吸引させようとする男性がそこに映っていた。

 

何匹かのアリがチューブに吸引されていき、「ヤメテ!」という悲痛な叫び声が再び上がり、喉を通るアリによってもうその声が出なくなってしまったところで夢から覚めた。時刻を見ると午前3:50であった。そして、爆竹の音、パトカーのサイレンの音が続いた。フローニンゲン:2019/11/30(土)04:44

 

5270. 旅へと導くもの:地上で生きる真の喜びを求めて

 

旅へ積極的に出かけて行こうとする気持ち。最近それが強くなっている。それは旅を通じて、自己を超出していこうとする意思の現れなのだろうか。

 

私は決して、旅を通じて何か知識を得てやろうとか、そうした外面的な何かを求めているわけではない。むしろ、そのようなことを求めるような旅を毛嫌いしているし、そうした旅を毎月のように行えるはずがない。

 

やはりそこには、自分が現在直面している内面の課題と何か関係がありそうだ。それは現在の自己を超え、より生の本質に根付いた生き方を希求する気持ちが関係しているように思う。あるいは、地上で生きることの本当の美しさを、旅という非日常的な意識の下で強く実感し、それを日常の意識の中に定着させることを求めているかのようなのだ。

 

旅を通じて、日常の認識の枠組みから解放され、そこで非日常を体験し、この世で生きることの本質的な感覚を自分の中に流し込んでいくこと。あるいは、そうした感覚の流れの中に浸り切ること。それを求めて旅を繰り返しているのかもしれない。

 

それともう一つ、欧米での生活が始まって以降、とりわけ欧州に渡ってから行う旅においては、私は必ずその土地の美術館を巡るようにしている。それはかなり無意識的な行動だったのだが、この無意識的な行動の背後には何か大切なことがありそうだと、早朝にヨガをしながら思った。

 

欧州の美術館を手当たり次第に巡りたいという思い。そんな思いがある。

 

その思いの背後には、人間が生み出すことのできる極限の美を味わいたいという欲求があるのか。いや、おそらくそうした美を美術館で味わうというのは確かに大切なことかもしれないが、それは一時的な美的体験であり、見方を変えると、美の消費だと言えるかもしれない。

 

その瞬間において美しいものを見て、その喜びを味わうこともこの世で生きる一つの喜びには違いないが、地上で生きることの真の喜びはもっとシンプルで、それでいてもっと深いものであり、もっと永遠的なもののはずだ。

 

人間が生み出すことのできる最高峰の美を美術館で触れることを通じて、地上で生きることの美を汲み尽くす道を模索している自分がいるようだ。

 

この世で生きることが持つ本質的な美しさ、そして喜び。何かそうしたものを絶えず実感する道を求めて、私は欧州の美術館を巡っているのかもしれない。

 

おそらく、そうした美術館に所蔵されている作品の作者たちは、同じことを求めていたに違いないのだ。作者のそうした思いが強ければ強いほど、私の心に響くものであり、魂に訴えかけてくるものがある。

 

美の創出を単に求めるのではなく、地上で生きる真の喜びを求め、それが形になったものに触れることを通じて、自らもまたこの世で生きる本当の喜びに目覚めたいという思い。そうした思いが私を旅に導いているようなのだ。フローニンゲン:2019/11/30(土)04:59

 

5271. 創造活動とこの世で生きることの喜びの一致へ向かって

 

新たな朝がやってきて、新たな日を迎えられることの奇跡を、後何回自分は目撃することができるのだろうか。そして何度その喜びを味わうことができるのだろうか。夜が明けぬ闇の中、そのようなことを考える。

 

今の自分の主要な課題はどうやら、創造活動とこの世で生きることの喜びを完全に一致させることにあるようだ。そうした道を模索する日々が続く。

 

そうした模索の日々そのものも、小さな自己を超えた視点で見ると喜びに変わる。ただし、そうした視点を常に持つことは難しく、そうした視点を恒常的なものにするためにこのようにして書く必要があるのだと思う。

 

時刻は午前7時に近づきつつある。北欧にほど近い北オランダのこの街において、この季節のこの時間はまだまだ闇の世界のための時間で覆われている。

 

そんな中、本日一杯目のカカオドリンクを作った。100%のカカオパウダー、ヘンプパウダー、カカオニブ、そして蜂蜜を加えたこの飲み物は、一日の活動を本格的に始めるためのなくてはならない一杯である。

 

それを作っている最中にふと、「そういえば、どの国でもそうかもしれないが、学校時代に演奏や歌を通じて音楽を楽しむことはあっても、音楽を自ら創る喜びを味わった経験はないな」と考えていた。つまり、曲を自ら創る体験というものが音楽教育に欠けているように思えたのである。

 

実はこうした創ることに関する体験の欠如は、教育上多くの科目においても見られるのではないかと思う。国語の作文や英語の作文にせよ、それらはたかが知れている。数学の問題を自ら作る機会に恵まれた教育を受けたことのある人はたかが知れているだろう。

 

人生とは不思議なもので、私たちが望む望まぬに関わらず、課題や問題をいつも提示してくる。言い換えると、人生は、絶えず課題や問題を作り、それらを私たちに提示する形で進行していくようなのだ。

 

そう考えてみると、本来私たちというのはやはり作る(創る)生き物なのだと思えてくる。逆に言えば、自ら作ることをしなければ、自らに与えられた生を十全に生きられないのではないかとさえ思えてくる。

 

幸か不幸か、人生は絶えず課題や問題を創造する形で進行していくのだが、仮に私たち自身がそれらの課題や問題と向き合わず、そして既存の課題や問題を乗り越えていく新たな課題や問題を自ら創造していかなければ、人生は深みの方向に向かっていかないのではないだろうか。

 

課題を創造するならまだわかるが、問題を創造するというのはどういうことなのだろうか。それはあまり馴染みのない響きを持っているかも知れない。

 

だが、課題や問題の解決の本質、そして解決を通じて自己が深まる本質には、新たな課題や問題の提示が要求される。この点はまだ謎なのだが、課題や問題というのは、それらに置き換わる新たな課題や問題が提出されたときに解決されてしまうものなのだ。

 

「時間が課題や問題を解決する」ということの本質にはこれが関係しているように思う。そのようなことをつらつらと考えながらカカオドリンクを作っていると、生を十全に生きるためには、そのようにして絶えず課題や問題を自ら創造していくことが重要であり、何よりも何らかの領域で自己を表現する形の創造活動に従事することが必要なのではないかと思わされたのである。

 

「表現する」という言葉に対応する英語は、“express”である。これは、「内側のものを外側に絞り出す」という意味が語源になっている。確かに、絞り出すための内容物が求められることは確かであり、その点において、これまでの教育が行ってきたような、知識を取り入れるような、ある種“impress”型の実践も大切である。

 

とは言え、これが過剰に行われる場合、それはまさに過食に慣れた現代人のように、外から何かを与えられることだけに飼い慣らされ過ぎてしまい、自分の外に何かを表現するということに拒絶反応が生じてしまう。そうなってくると、私たちの内側には外から入り込んでくるものだけが堆積し、本当に重要なもの、それはすなわち、自分の内なる声であったり、魂の鼓動であったりが感じられなくなってしまうのではないだろうか。

 

そのような状態では、決してこの世で生きることの喜びを十分に感じられないだろう。なぜなら、この世は私たちの深層とつながっているものであり、この世で生きる喜びというのは、私たちの内側の最奥部からうねりを上げて生じるものだからである。

 

私たちはいつまで外側から何かを取り入れることに躍起になるのだろうか。内側から外側に向かって何かを創造することをなぜ始めないのか。

 

この世界に関与するというのは、内から外に開き、それを通じてこの世界と共に歩むことではないのだろうか。現代社会において、子供も大人も自閉的な教育や学習に慣れ過ぎてしまっている。もっと創ることに重きを置いた教育や学習を実現させていくことを理想に掲げるのはおかしなことなのだろうか。

 

今朝方見た夢の中の少女を思い出す。チューブに繋がれ、流動食として小さなアリを無理やりに食べさせられようとしていた。その少女は悲痛な叫びを上げ、最後は黙ってアリを胃袋に詰められた。

 

express, express, express. それを絶えず動詞形で用いること。決して、「急行の」という形容詞的な意味でこの人生に適用しないこと。

 

絶えず動的なこの世界と人生の中で、絶えず自己の内側から外側に向かって何かを創造していく活動に従事し続けていくこと。そうしたアクトだけが真実を語り、人生を十全に生きることにつながっていく。フローニンゲン:2019/11/30(土)07:12

 

5272. 今日からの回復食

 

時刻は午後7時を迎えた。辺りはとっくの昔に闇に包まれているが、今書斎の窓の外を通じて三日月が見える。

 

今日は随分と低い位置に三日月があるものだ。それでもその輝きは美しく、闇に覆われた世界においてはなお一層その輝きが目立つ。

 

つい先ほど夕食を摂り終えた。今日の昼からは、オーツ麦を含めた4種類の麦類のフレークを食べ始めることができた。豆乳にそれを浸し、レンジで少し温め、そこにオーガニックの蜂蜜とピーナッツペーストをスプーン一杯ほど入れたものが昼食である。

 

さすがバイオダイナミクス農法で作られた麦類だけあってそれは栄養が豊富であり、そして味も美味い。これは消化が良くないという意味ではなく、食物繊維が豊富だという意味で腹持ちが良い食事だ。実際に、夜までお腹が空くこともなく——断食が明けてからまだ三日だから当然と言えば当然かもしれないが——、午後にいつも飲んでいるカカオドリンクも不要であった。

 

夕食は、予定通りのものを食べた。今日からは、ベジブロスで作ったスープを味噌汁にして飲むのではなく、それは以前のように朝に飲むことにした。というのも、食事の最中に水分を取ることは消化液を薄めてしまう都合上、あまり好ましくないことがわかったからである。

 

スープ類はよく食前に飲めと言われるが、そうしたスープ類でさえも消化液を薄めてしまうだろうから、味噌汁を夜に飲むことはやめた。その代わりに、これまで味噌汁に入れていた具材(玉ねぎと椎茸)とジャガイモを混ぜ、そこに味噌とクロレラを和えることにした。これがまたなんとも美味であり驚いた。

 

ご飯もパンも一切摂取しない私にとって、芋類から炭水化物を摂取することは大切であり、ジャガイモを夜に主食として食べている。昼に麦類のフレークを食べたのと同じ大きさのボール一杯分のジャガイモをレンジで茹で、今日は二つの味でそれを食べた。

 

一つが上記で述べたものであり、もう一つが断食前から行っていたように、パンプキンパウダーとマカパウダー、そこに醤油を少しばかり垂らして食べる方法だ。どちらの方法で食べるときにせよ、オランダの家庭料理で有名なマッシュポテトのように、ジャガイモをできるだけ潰して食べるようにしている。そこからさらによく噛むようにしているため、消化には随分と良いように思える。

 

夕食のデザートとして、サツマイモを茹でたものを食べ、それもまた美味であった。一つ忘れていたが、食前に中くらいのトマトを一つ食べることも断食前の食事と同様であったが、断食後からは豆腐を食べることをやめた。昼に豆乳を飲んだり、朝にソイプロテインを大麦若葉に溶かして飲むようにし始めたため、夜に豆腐があると、大豆プロテインの摂りすぎになってしまうからである。明日からは、今夜と同じ夕食を食べ続けていくことにしたい。フローニンゲン:2019/11/30(土)19:27

 

5273. 仮眠を通じた体験:ドイツの列車の旅に思いを馳せて

 

今日は断食後初めて昼食を食べたため、仮眠をいつもより長く取った。ここ最近は仮眠中に見られるビジョンが鮮明になり、さらに仮眠後に目覚めたときに、そこからまた新たな人生が始まったかのような感覚、あるいは新たな自己が誕生したかのような感覚に陥ることがしばしばある。今日の仮眠の後もそのような感覚があった。

 

仮眠前の自分と仮眠後の自分は、自我同一性の観点から見れば同じなのだが、それでも仮眠前の自己を幾分超出し、新たな自己としてそこに存在しているはっきりとした自覚があった。

 

それ以外にも、今日はビジョンとして、なぜだか突然に、幼少時代に母方の祖母の家で過ごしていた夏休みの楽しい体験が思い出された。祖母と会話をしている場面や、テレビからニュースが流れている場面、そしてネギトロ寿司を食べている場面などがあった。それらはどれも実際に祖母の家で体験していたことだったと思われる。

 

夕方に買い物に出かけたとき、外の寒さに驚いた。今夜からはさらに冷え込むようだが、外出したときに手袋をしていないと、手がかじかんでしまいそうだった。ただし、運河沿いのサイクリングロードをジョギングする足取りはとても軽く、断食後の回復食によって、断食前と同じぐらいに体を動かすことができる自分がそこにいることを実感できたのは幸いであった。

 

その後、近所のスーパーに立ち寄り、今夜の夕食の野菜類を購入した。スーパーからの帰り道、こうしてジョギングをしたり、スーパーに買い物に行くこと、夕食を作ることなどが、どれも生に彩りを与えているものであり、なくてはならないもののように思えてきたのである。

 

それらは現代社会の効率化の波によってどんどんと面倒臭がられるような活動に思えるかもしれないが、そうした何気ない活動の中に生を十分に味わう要素が含まれているように思える。それらは決して無駄な活動ではなく、私にとっては生に喜びをもたらしてくれる不可欠なものなのだという実感を改めて持った。

 

そのようなことを考えながら歩いていると、秋から現在にかけて行った旅を通じて、また自己が着実に変容の道を歩んでいることに気づいた。自分の変容に逆らわず、それと共に歩んでゆくこと。それを大切にしていきたい。

 

年末年始のマルタ共和国とミラノへの旅行に期待が高まる中、今日は午前中にふと、ベルリンとミュンヘンの旅の計画についてもぼんやりと考えていた。フローニンゲンから高速バスで国境沿いのドイツの街リアーに行き、そこからハノーファーを経てハンブルクまで列車で行き、そこで乗り換えをしてベルリンに行く列車の旅に思いを馳せていた。

 

今からもう4年前のことになるが、フローニンゲンからライプチヒまで列車で行った旅は本当に素晴らしかった。列車の車窓から景色をただぼんやりと眺める喜び。移りゆく景色と共に目的地に近づいていく喜び。そうした喜びと共に変貌していく自己がそこにあった。

 

ベルリンに行く際もぜひ列車の旅にしようと思っている。そしてベルリンでしばらく滞在したのちに、そこから南下してミュンヘンに向かう。

 

ここでも列車に乗り、ベルリンからミュンヘンに向かって行く際の景色の変化を味わいたいと思う。そのような列車の旅に思いを馳せていると、胸が高鳴ってきた。

 

その旅はこの春にでも実現させようか。ちょっと寒さの残る時期にドイツへ旅行に出かけてみたいという思いが昨夜から湧き上がり、それは今日の午前中、そして今も湧き上がり続けている。ぜひ来年の春頃にベルリンとミュンヘンへの旅を実現させよう。フローニンゲン:2019/11/30(土)19:56

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