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4457-4462:フローニンゲンからの便り 2019年5月29日(水)


タイトル一覧

4457. 最適な食生活の概ねの確立

4458. 早朝の至福さ:久しぶりに街の市場に足を運んで

4459. メルヴィンとの対話から考えさせられるチェスと作曲

4460. 食に関する今朝方の夢

4461. 今朝方の夢の続き

4462. ソシオパスとサイコパスに関するビジョン

4457. 最適な食生活の概ねの確立

今朝は午前3時半を迎えた頃に起床し、4時過ぎから一日の活動を始めた。

昨日は天気予報の通り、日中も肌寒く、マフラーを巻いて出かけている人もいたほどである。夜からはさらに冷え込み、当然のごとく湯たんぽを使って就寝した。

深夜未明に特に冷えることが予想されていたので、夜の段階でヒーターを入れ、そのままの状態で就寝することにした。今朝の起床は3時半であるから、まだ深夜未明であると言えなくもないが、ヒーターをつけていたおかげもあり、書斎の中は暖かい。

今もヒーターをつけっぱなしにしながら、それでいて換気のために窓を開けている。4時を過ぎると、小鳥の鳴き声が暗闇の中から光のようにやってきて、そっと私に寄り添ってくれている。

仮説の通り、果物や豆腐以外の固形物を摂取しないことによって、腸内環境及び心身の状態がますます良好な状態になっているのを実感する。特にそれが顕著に表れているのは肌であり、ようやく手荒れから完全に回復したと言える。

これまでは様々な変数設定による食実験を自らに課していたこともあり、その実験の結果によって、腸内環境が若干変化し、手荒れが回復したり、戻ったりを繰り返していた。ここ最近は大きな実験をすることなく、軌道修正的な小さな実験しかしていなかったこともあり、腸内環境の安定的健全化がもたらされ、手荒れが悪い状態に戻ることなく、完全に回復したと言える。

手の皮膚の再生機能が元どおりになり、本当に嬉しく思う。皮膚の再生機能が回復したのも、やはり消化吸収を司る腸が本来の機能を果たせるようになったからだろうし、それをもたらしたのは食生活の抜本的改善であった。

確かにこれまで様々な実験をしてみたところ、私にとって最善の食生活とは何かが見えてきた。これはすべての人に当てはまるわけではもちろんないが、多くの人にとっても影響を及ぼす食実践なのではないかと思う。

それは端的には、良質な油を日々摂取すること、多くの食事から栄養を得るのではなく、最小限の食事から豊富な栄養を摂取することに努め、無駄に固形物をとって胃腸を働かせすぎないことである。

油に関してはこれまで言及していたように、現段階では、すべてオーガニックのものを使っており、種類としては、アマニ油、オリーブオイル、ココナッツオイルの三種類である。まだ冷蔵庫に未開封のエゴマ油があり、それを使い切ったら、今後はオメガ3脂肪酸とオメガ6脂肪酸の含有量のバランスから、アマニ油やエゴマ油ではなく、ヘンプオイルを使う予定でいる。

最小限の食事から豊富な栄養を摂取することに関しては、三種類の有機味噌を幾つかの時間に分けて味噌汁として飲むこと、各種植物の栄養素が詰まったパウダー(カカオ、ヘンプ、マカ、大麦若葉、クロレラ、パンプキンシードなど)を日中に分けて飲むこと、そして果物、豆腐など、胃腸に負担のかからないものを食べるようにしている。

野菜に関しては、夜に大きめのトマトと茹でたサツマイモを食べるようにしており、これにマカパウダー、パンプキンシードパウダー、玄米味噌を混ぜた味噌汁を飲むだけで、十分にお腹が膨れ、その他の食事は必要ない状態になっている。

おそらく今の私は、完全に固形物を摂取しなくなるというのは危険であるように思える。なぜなら、まだそうした腸内環境ができていないからであり、また果物や豆腐などの最小限の固形物を摂取することによって、腸を水分以外のもので運動させることも、ぜん動運動を促す上で重要に思うからである。

今後もさらに微調整を加えていくだろうが、今の自分にとって最適な食生活が概ね確立されたように思う。フローニンゲン:2019/5/29(水)04:41

No.1998: An Inner Flow in the Early Morning

I’m observing my inner flow in the early morning. It tells me a lot. Groningen, 09:08, Wednesday, 5/29/2019

4458. 早朝の至福さ:久しぶりに街の市場に足を運んで

つい先ほど、目覚めの一杯として、チアシード入りの大麦若葉を飲んだ。とても飲みやすい青汁のようなこの飲み物は、一日のスタートを切る友となった。

そして、今飲んでいる味噌汁ももまた、一日を充実感を持って過ごすために不可欠のものとなった。今日の味噌汁は、リンゴ、トマトのへた、アボカドの種と皮、そしてサツマイモの切れ端を使った実にシンプルなベジブロスを出汁としている。

そうしたシンプルな出汁と濃い八丁味噌は絶妙な組み合わせであり、そこに各種スパイスを少々振りかけている。午前5時を迎えようとしているこの時間に味噌汁を飲んでいることの幸せ、そして今日もまた充実した一日になるだろうということを感じられている幸せの中に今の私はいる。

幸福物質であるセロトニンが腸に90%以上存在しているというのがうなづけるぐらいに、腸内環境の改善のおかげで日々の幸福感が間違いなく増しているように思う。

ここ最近は、ヨガの実践を早朝のみならず——早朝のヨガのセットを見直し、幾つかアーサナを加えた——、午後にも行うようにしており、さらには短い時間でもいいので、ウォーキングとジョギングを兼ねた運動を外で行うようにしている。こうした適度な運動も、腸のぜん動運動の促進、さらには血流の改善を促していることは間違いないだろう。

今のところは幸いにも、フローニンゲンは晴れの日が多く、仮に雨が降っても日中に運動する時間ではないため、近くの河川敷に出かけることができている。今後雨の日に遭遇した場合には、自宅で行うヨガのアーサナの種類を増やしたり、一つ一つのアーサナをより丁寧に時間をかけて行うのも良いだろう。

それかいっそのこと、雨の日用のアーサナのセットを組み立ててもいいかもしれない。この点についてはまた考える。

昨日は、街の中心部にあるかかりつけの美容師のメルヴィンの店に行って髪を切ってもらったこともあり、さらには中心部の広場にやってきていた移動型の遊園地がようやくなくなったので、久しぶりに市場に足を運んだ。そこで何か良い果物があればと思って店に行ってみたところ、やはりここにはスーパーにはあまり置かれていない果物が豊富に置かれていることに気づいた。

今後も果物は食べ続けていこうと考えており、リンゴとバナナに関しては、近所のスーパーで売られているオーガニックなもので十分なのだが、イチゴやブルーベリーなど、時々私が食べたくなる果物に関しては、市場で購入したいと思う。また、季節ものの珍しい果物はぜひこの市場で時折入手したいと思う。

時刻は午前5時を迎えた。夜が明け、空も随分と明るくなった。

風がなく、遠くの空が薄い赤紫色をつけている。小鳥たちが、黙想的な生活をそっと促すかのような鳴き声を上げている。フローニンゲン:2019/5/29(水)05:05

No.1999: A Little Bird with a Mendacious Mind

Around noon, I was examining the distinction between psychopath and sociopath. Whereas the former is somehow genetically born, the latter is socially and environmentally made. I’ll continue to study their characteristics. Groningen, 14:46, Wednesday, 5/29/2019

4459. メルヴィンとの対話から考えさせられるチェスと作曲

昨日は、かかりつけの美容師のメルヴィンに髪を切ってもらった。いつものことながら、終始話に花が咲いていた。

話題の最初に取り上げられたのはチェスであり、以前から私はチェスに関心を持っていた。メルヴィンがチェスについて熱心に語り、チェスをやってみることを私に勧めてきた。

チェスを学び、時折メルヴィンとチェスを楽しむというのも悪くないと思ったが、現在何か新しいことを始めるゆとりはあまりないため、また機が熟すのを待ちたい。チェスに対する関心はもちろんあるのだが、その根底にある思想がもしかしたら自分と相容れないものかもしれないとも思っている。

これはよく知られていることだと思うが、チェスは取った駒を使うことができず、一方、将棋では取った駒を使うことができる。チェスにおいて、相手の駒を取るというのは、その駒を殺すということを意味しているように思え、一方将棋においては、相手の駒を生かしておき、それを再び世界の中で活かすという思想が根底に流れているように思う。

チェスと将棋の根底に流れる思想を比較してみたときに、やはり私はチェスよりも将棋の方に魅力を感じていると言わざるをえない。このあたりの思想的な比較についても話題に挙げたかったが、チェスの話の途中で音楽の話になったので、また次回にでもこの点についてメルヴィンと話をしてみようかと思う。

昨日の午前中にふと、一日の様々な時間帯に様々な音楽が自己から生まれてくるということを実感していた。その背後にあるものとして、時間帯によって自分の内側のエネルギーの流れが変化しており、その変化する流れが一つの運動を伴いながら形になることによって曲が生み出されるのかもしれないと考えていた。

メルヴィンとの会話にもそれを示唆するような話があった。メルヴィンはもともとダンスを長くやっており、心身のつながりや、身体エネルギーに関する話も私と合う。

昨日のメルヴィンとの対話から、やはり私たち自身は流れに他ならず、運動に他ならず、そして音楽に他ならないということを思わされ、実際にその点についてはメルヴィンにも伝えていた。私がヨガの実践において、流れを意識しているのも何か関係があるだろう。

ひょんなことから私は、自分が作った曲を公開していることをメルヴィンに伝えると、メルヴィンは早速、カウンターの机の上に置いてあるiMacを使って、Youtube上で私を検索し、私が作った曲を流してくれた。

そこには当然気恥ずかしさが最初あったのだが、ひとたび曲を聴き始めてみると、「一体この曲は誰が作ったのだろうか?」という不思議な問いが生まれた。正直なところ、私は自分が作った曲をあまり覚えてない。

:「これ、誰が作った曲?」

メルヴィン:「ヨウヘイが一昨日作った曲だよ笑」

そんなやりとりがあった。私はある意味、自分の拙い作曲技術をなんとか用いながら、自己とこの世界との接触、ないしは出会いを形にしているだけであり、言い換えるとそれは、世界と自己との深層的な出会いに感謝し、それを祝す記念撮影的な行為を行っているだけのようにも思えてくる。

同時にその行為があることによって初めて、そうした出会いが存在していたのだとわかることでもある。いずれにせよ私は、世界と自己との媒介者として作曲実践を日々行っているようなのだ。フローニンゲン:2019/5/29(水)05:30

No.2000: The Sweet Twilight

I feel that the taste of the twilight is sweet. Groningen, 16:59, Wednesday, 5/29/2019

4460. 食に関する今朝方の夢

時刻は午前6時半を迎えた。辺りはすっかり明るくなり、朝日が早朝の世界をより一層輝かせている。

昨夜の就寝前に思い描いていた通りに、今日も充実感に満ちた一日になりそうだ。

今朝方の夢についてまだ振り返りをしていなかったので、それらについて書き留めておきたい。最初の夢の中で私は、小中学校時代を過ごした社宅の食卓にいた。

両親は、私が大学生になって以降、その社宅には住んでおらず、引っ越しをしてマンションで生活をしているのだが、夢の中の私はその社宅に帰省をし、両親もそこで暮しているようだった。

普段の帰省時であれば、私たち家族は食事を取り囲み、楽しく談笑をするのだが、今回は様子が少し違った。というのも、私は食生活を大きく変えており、一緒に食べれる食事などほとんどなかったからである。

厳密には、両親が作ってくれた料理には、今の自分の腸内環境にとって好ましくないものが含まれており、私はそれらの食事を断っていた。

ちょうど父が丹精込めて魚料理を作ってくれ、それを嬉しそうに私に差し出してくれた。だが私は、「もう魚は食べれない」という言葉を述べ、せっかく作ってくれた料理に口をつけることはなく皿を返した。

実際のところは、豚・牛・鶏の肉は食べないが、魚であればなんとか許容できる食べ物ではあるのだが、それでも私は今の自分の腸内環境を考えて、父の料理に手をつけることはなかった。父は残念そうな顔を浮かべて、「食べないの?」と私に尋ねてきた。

それに対して私は、かなり強い口調で、「もう肉類は食べれない。「ドクター・キャップ」がかかってるんだ」と述べた。すると父は、「「ドクター・キャップ」?「ドクター・ストップ」のこと?」と笑いながら聞き返してきた。

私もすぐにその言い間違いに気づいたが、「うん、そのこと」とだけ答えた。父は少し寂しげな背中を見せながら、自分の部屋の方に歩いて行った。

すると今度は母がやってきて、私にクッキーを差し出した。

:「ご飯食べないんだったら、代わりにこれでもどう?」

:「ありがとう、クッキーか。もうお菓子類も食べないんだ」

:「そうなの。じゃあ、パンでも食べる?」

:「パン?ちょっとそのパンの袋を見せて」

私はそのよう述べ、パンの袋の成分表示を見た。するとそこには、なぜかカタカナではなく、英語で成分表示がなされていた。見ると、「マーガリン」というカタカナを誤魔化すかのように、それとなくマーガリンが英語表記にすり替えられ、パンの原料の中にすでにマーガリンが含まれているようだった。

私はそれを見たとき、「このパンにはマーガリンが含まれてるよ。マーガリンを食べるというのは、プラスチックを食べるのとほとんど一緒なんだ」と述べた。そのパンにはその他にも、身体に害悪な添加物や油が含まれており、私はその点を母に指摘した。

成分表示が英語でなされているということ、いや仮にカタカナであったとしても、無知な消費者を欺くような商品が世の中に数多く出回っていることに対して、とても残念な気持ちと憤りを覚えた。そこで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2019/5/29(水)06:52

No.2001: A Hymn for the Coming Night

Today is approaching the door of tomorrow. Groningen, 20:37, Wednesday, 5/29/2019

4461. 今朝方の夢の続き

時刻は午前7時に近づきつつある。無風のフローニンゲンに、小鳥の鳴き声が引き続き響き渡っている。

一切波紋の立っていない池の上に、みずみずしい一枚の葉が落ち、それでもなお池には波紋が立たぬかのように、小鳥の鳴き声が早朝の世界にこだましている。

たった今、朝日の輝きがぐっと増し、世界がより黄色く輝き始めた。

確かにこの時間帯は昨夜の寒さを引きずっており、まだ寒いのだが、午後に向かっていくにつれて徐々に気温が上がっていくだろう。もうしばらくはヒーターをつけ、気温が十分に上がってきたらヒーターを止めたい。

先ほど今朝方の夢について振り返りをしていた。それは食に関するものだった。

実はもう一つ、間接的に食に関係していると思われるような不思議な夢を見ていた。夢の中で私は、日本のプロサッカーチームの一つに所属していた。そこでは、確かに選手としてそのチームに所属しながらも、同時に人財育成の仕事も担っていた。

ちょうどその日は公式戦がある日であり、相手は外国のクラブチームのようだった。試合に向けて準備をしようと思っていたところ、すでにスタジアムには観客が大勢押しかけており、試合開始までほとんど時間がなかった。

実際に、準備をする時間などほとんどなく、試合がすぐに始まった。最初私はベンチスタートであり、監督と時折会話をしながら戦況を見つめていた。

その試合は両者拮抗した形で進んでいき、「今日の試合には出場し無さそうだな」と私は思った。試合の最後の最後まで両者無得点の状態が続いていたが、終了間際に、こちらのチームのエースが見事なボレーシュートを決めた。

それは、キーパーからのキックを直接ボレーで合わせるという極めて難易度が高いシュートであり、何よりもシュートを放った位置がハーフラインを少し超えた程度の場所であり、非常に距離があった。

ゴールが決まった瞬間に、サポーターたちは興奮の絶頂に到達し、サポーターの波がピッチにまで押し寄せてきた。黄色いフラッグや黄色いユニホームを着た無数のサポーターが波のようにピッチに流れ込んでくる光景は、とても圧巻であった。

その光景が静かな時の流れのようにゆっくりと去っていくと、私はゴールマウスの前に立っていた。どうやら私は、ゴールキーパーとして試合に出場しているようだった。

私の本来のポジションはキーパーではないのだが、キーパーが負傷してしまったために、代役としてキーパーを務めることになったようだった。ちょうど相手のフリーキックの場面であり、私は後ろから味方に指示を出し、壁の位置を修正させた。

すると、私の背後に監督らしき人物が立っていて、私の指示の出し方がイマイチであることを指摘し始めた。キーパーとしてのポジションに不慣れであったから、私は監督の意見を聞き、それを取り入れる形で、右サイドをもっとケアするようなポジションを取るように味方の選手にお願いした。

そこで夢の場面がスッと変わり、先ほどまで一緒に試合をしていたメンバーたちと共に私は大きな畳部屋にいた。どうやらそこで今から食事を摂ることになっていたようであり、食事が続々と運ばれてきた。

見ると食事は軽食であり、サラダ類が主であり、果物も添えられていた。すると、その畳部屋にどこからともなく音楽がかかり始め、メンバーたちは音楽に合わせてダンスをし始めた。

それはダンスというよりも、ラジオ体操を2倍速から3倍速にしたような体操とも言えるようなものであり、その体操のポーズの中で、畳の上で腕立て伏せや背筋を鍛えるものがあり、そのポーズの時にだけ、メンバーは食事を食べることを許されているようだった。

印象に残っているのは、一人の選手が背筋を鍛えながら、まるでオットセイのように、実に器用に野菜サラダを食べていたことである。フローニンゲン:2019/5/29(水)07:34

No.2002: A Dynamic Flow in the Early Morning

This morning I can feel a more dynamic flow than usual. Groningen, 10:01, Thursday, 5/30/2019

4462. ソシオパスとサイコパスに関するビジョン

時刻は午後の7時半を迎えた。今日は早朝から肌寒さが続いており、午前中までヒーターをつけていたが、正午を過ぎてなんとかヒーターを切ることができるほどに気温が上がった。今は気温も暖かくなっており、甘さの漂うような黄昏時の空が広がっている。

午後に仮眠を取った際に、今日もビジョンを見ていた。ビジョンの中で私は、ソシオパスとサイコパスの違いに関する違いを調べていた。

幾つかの書籍にあたり、知り合いか見知らぬ方かわからないが、日本人の男性とその違いについて意見交換をしていた。この世界には獰猛なプレデターのような人間が一定数以上存在していることは確かであり、そうした人間の特性について知識を得るというのは、護身術的な意味で必須のことか思う。

また、個人の発達や組織・社会の発達を考えてみた場合においても、良心がそもそも欠如している人間とどのように向き合い、彼らとどのように接していくのかを考えることは不可欠のことだろう。

ビジョンの中で何冊かの書籍にあたっていたが、仮眠から覚めると、私は改めてソシオパスとサイコパスについて学んでみようと思った。

先ほど夕食を食べ終え、今日の仕事もひと段落したため、ドイツのアマゾンを経由して、下記の三冊の書籍を購入した。

1. “Political Ponerology: A Science on the Nature of Evil Adjusted for Political Purposes (2009)”

2. “The Sociopath Next Door (2006)”

3. “Almost a Psychopath: Do I (or Does Someone I Know) Have a Problem with Manipulation and Lack of Empathy? (2012)”

最初の書籍は専門家が読んでも読みごたえのありそうな内容であり、残り二冊の書籍は一般書の類である。届き次第、それらの書籍を順次読み進めていこうと思う。

いずれかの書籍の説明文にもあったように、サイコパスは遺伝的な要因も含めて生得的に生み出されることが多く、ソシオパスは社会環境的に作られることが多い。

仮に私たちが無知と善意の元に、サイコパスやソシオパスに高度な知性な能力を付与するような形で発達支援をしてしまった場合、あるいは彼らが発達理論に関する知識と技術を得てしまった場合、いかなる事態が生じるかを考えることは極めて重要であり、予想される事柄を未然に防ぐような手立てを打っていくことは社会的に必須のことになるだろう。そうした問題意識も含めて、上記の三冊を読み進めていこうと思う。

早朝の日記でも書き留めていたが、私はこれまでどのような曲を作ってきたのかをあまり覚えていない。今日はすでに4曲ほど詩のような短い曲を作り、これから5曲目を作ろうと思っているが、本日作った曲ですらもうあまり覚えていない。

当然ながら、ひとたびそれを聞けばすぐに様々なことを思い出すのだが、逆に言えば、聴き返してみなければ思い出すことができないという不思議さがある。この点についても、音楽というものを考察するヒントのようなものが眠っていそうである。

ザカリー・スタインの新刊書の再読も終わりを迎えようとしているので、明日からはスクリャービンの音楽に関する“The Music of Alexander Scriabin (1986)”の初読を始めていこうと思う。

今日もスクリャービンに範を求めていたが、スクリャービンの曲の楽譜の一ページ一ページを自分なりの工夫を凝らして短い曲を作ることをこれからも続けていきたい。できれば、バッハのコラールと同様に、毎日一つはスクリャービンの曲を参考にしようと思う。フローニンゲン:2019/5/29(水)19:55

No.2003: The Rise of the Curtain

We can always rise the curtain of our life. Groningen, 12:01, Thursday, 5/30/2019

5月29日(水)に生まれた曲たち

Op.1190 新たな一日の始まりに

Op.1191 早朝の内側の流れ

Op.1192 偽りの心を持つ黒い小鳥

Op.1193 甘き黄昏

Op.1194 来たる夜への讃歌

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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