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4018-4023:フローニンゲンからの便り 2019年3月23日(土)


タイトル一覧

4018. 地元での夢

4019. 畜生の大量生産と漸次的虐殺を行う現代社会

4020. 春への移行:今日からの作曲実践の工夫

4021. 市場での発見

4022. オランダ生活三年目の大きな気づき

4023. 悪魔の螺旋

4018. 地元での夢

今朝は午前六時に起床し、現在時刻は七時を迎えようとしている。今日から休日が始まったが、小鳥たちはいつものように静かで美しい鳴き声を上げている。そんな鳴き声に耳を澄ませている自分自身の心の内側は、平日と同じく平穏さで満たされている。

家の目の前の通りの街路樹を今眺めてみると、木のてっぺん近くに一羽の小鳥が止まっている。どこかをまっすぐに見ながら、じっとしている小鳥を眺めている。

小鳥が止まっている木をよくよく眺めると、もう随分と蕾が膨らんできていることに気づいた。特に昨日は暖かかったため、蕾が大きくなったのだろう。

その木の横の木を眺めてみると、うっすらと新緑が見える。来週の木曜日までは最高気温が10度前後の日が続くが、木曜日を過ぎすると、15度前後となるようだ。フローニンゲンもようやく春らしくなってきたと言えるかもしれない。

いつものように、今朝方の夢についてまず振り返っておきたい。夢の中で私は、小中学校時代を過ごした町にいた。

私は昼食を食べようと思い、何も迷うことなく近所のラーメン屋に向かった。国道を挟んで向こう側とこちら側に二店のラーメン屋がある。二つの店は国道を挟んでいるとはいえ、距離はとても近い。

最初私は国道を渡って、小学校時代の友人の家の隣にあるラーメン屋に向かうことにした。だが、横断歩道を渡りきったところで、財布を持ってくるのを忘れたことに気づいた。それに気づいた時はもう信号機が変わっており、私はもう一度引き返すためにその場に立ち止まった。

再び信号機が変わり、国道を渡った際に、ついでなのでもう一店の店の中を覗いてみた。すると、以前とは異なって、店内が綺麗になっており、客もそこそこ入っていた。

私はこちらの店で食べてみることにしようと思い、店を後にして、財布を取りに戻った。ところがどういうわけか、自宅のあるアパートとは反対側に歩き出し、友人の自宅の方へ向かっている自分がいた。

少し歩くと、地元の町には見慣れない三、四階建てぐらいの建物が建っており、私はその中に入っていった。その最上階にはセミナールームのようなものがいくつかあったが、今日が休日であるためか、中には誰も人がいなかった。

そう思った瞬間に、私の横には一人の友人(SS)がいた。彼はちょうどすぐ近所に住んでおり、彼も自宅に戻らなければならない理由があるとのことであった。

私たちはその建物の最上階をぶらついており、廊下の行き止まりに不思議な扉を見つけた。それを開けてみると、三段にわたる棚がそこにあって、一番下の段は空っぽ、二段目は書籍が数冊ほど、三段目は資料が挟まれたバインターで埋め尽くされていた。

私は何気なく、目の高さぐらいにあった三段目のバインダーを動かしてみた。すると、その段は向こう側に通じているらしく、反対側の様子が見えた。反対側にも白い廊下と部屋があるようだった。

それを見つけた瞬間に友人に声を掛け、反対側に抜けてみようと提案した。すると、その棚の向こう側に人影が見えた。

そこにいたのは、大学で働いている関係者のようであり、黒いスーツを着ていた。その中年男性は、私たちがこの建物に入ることを不審に思い、「そこで何をしてるんだ?!」と声を荒げて質問してきた。

私たちは「これはまずい」と思い、その男性の質問に答えることなく、その場から逃げ出した。ちょうど廊下の窓が開いており、そこから空を飛んで逃げようと私は友人に持ちかけた。

友人も空を飛べることを私は知っており、私たちは窓から空に向かって飛び出した。建物からは無事に離れることができたが、飛行の高度が思っている以上に上がらず、いやそれ以上に上げる必要もなく、もはや飛ぶ必要すら感じなかったので、私たちはすぐに地上に降りた。

そこで友人と別れ、私は今自分がいる場所を確認した。すると私のポケットには財布が入っており、「もう財布を自宅に取りに帰る必要はない」と思ったが、今自分が立っている場所は、ちょうどラーメン屋と自宅の中間であった。フローニンゲン:2019/3/23(土)07:15

No.1786: An “Amusement-Parkish” Saturday

I went to the market at the center of the city.

Today had an atmosphere like an amusement park. Groningen, 17:55, Saturday, 3/23/2019

4019. 畜生の大量生産と漸次的虐殺を行う現代社会

時刻はゆっくりと午前八時に向かっている。今日はこれから、断食に関する書籍“Prof. Arnold Ehret's Rational Fasting for Physical, Mental and Spiritual Rejuvenation: Introduced and Edited by Prof. Spira (2014)”の続きを読み進めていく。おそらく後一時間半ぐらい読めば全てを読めるのではないかと思う。

本書を通じて、断食に関する知識がさらに増したように思う。ちょうど昨日は果物しか摂らず、今日もそのような一日にしていこうと思う。

これまでの食生活を通じて蓄積された毒素をすぐに排出していくのではなく、短い断食を繰り返し、さらには果物だけを食べる日をもうけながら、少しずつ毒素を排出していくことが賢明だ。そのことについてまさに上述の書籍は指摘している。

昨日、街の楽譜屋に向かっている最中に、手にポテトチップスを持っている人や、アイスクリーム屋でアイスを食べている人たちの姿が目に入った。彼らは、人工調味料や人工甘味料に汚染された食べ物を知らず知らずに食べているかのように思えた。

食に関する知識を持って街を見渡してみると、現代社会の食生活がいかに乱れているかがわかる。人は「食べなければ生きていけない」という発想をもとに、過食に陥っている。しかも劣悪な食べ物ばかりを体内に取り入れる形で。

「食べなければ生きていけない」というのは、ある側面では正しい。やはり私たちは動物なのであるから、必要な栄養を体内に取り入れていかなければ生きていない。

だが、現代人の多くは「食べなければ生きていけない」という意味をどうやら取り間違えているようなのだ。それはこれまでの日記でも述べたように、一日に三食を食べることであったり、一食でも抜くとどこか不安になり、劣悪な食べ物に手を伸ばすという行動として現れている。

フローニンゲンの郊外に向かって歩いている最中、現代の大半の病気の根幹に食が関わっているのではないかということを考えていた。それは精神的なものも含めてのことである。

精神がいきなり病むということは考えにくく、私たちの精神は、それが宿る身体から徐々に病んでいくのではないかと思う。つまり、精神的な病の根源には、身体の弱体化が存在しており、私たちは体の内側から病んでいくのである。まさにそうした身体の弱体化を促すもの、あるいは治癒するものとして食があるのだと思う。

以前アメリカに住んでいた時、毎日昼と夜はカレーを食べ続けるという生活を二年ほど送っていた。それによって気付かされたのはとてもシンプルであり、私たちは食べたものになるということだった。それは身体的にも、精神的にもそうである。

もちろん、私の体の見た目と精神の有り様がカレーの姿になったかというとそうではなく、カレーに含まれる成分によって身体と精神が構築されているという感覚になったのである。この体験をもとにすると、現代人がゴミのような食べ物ばかりを食べている姿を見ていると、身体のみならず、知性および精神がゴミのようなものになってしまうのは非常に納得がいく。

そして残念なことに、多くの人たちの尊い魂までもがそのようなものに成り果ててしまっている。それでは、畜生のようになり果てた現代人に救いはないのかというとそうではないように思う。

私たちには自己治癒力というものが備わっており、それが今この瞬間にいかに弱まっていたとしても、それを徐々に回復させ、再度人間らしい身体と知性および精神を取り戻すことが可能なのではないかと思うのだ。

まさに今私が食生活を見直している理由はそこにある。ゴミから畜生へ、畜生から人間へと移行するために食を改善する必要を強く感じている。

楽譜屋に行く途中に、橋を渡る箇所があった。その橋を渡っていると、現代の教育は本当に大切なことを何も教えてくれないのだとつくづく思わされた。

人間が人間らしく生きていくために必要となる知識を何ら教えてくれないのが学校なのかもしれない。いやむしろ、人間性を涵養するどころか、身体や精神を蝕むような教育が施されているように思えて仕方ないのである。

とりわけ、霊性や食に関する正しい知識を教えてもらうことは一切ない。また、この現代社会を生きていく上で重要な金融(投資)に関する知識も何一つ教えられない。

私たちは学校教育を終えた後に、身体的弱者、知的・精神的弱者、魂的弱者として世の中に放り投げられる。畜生の大量生産および漸次的虐殺が続くこの流れを止めることはできないのだろうか。

少なくとも、霊性、食、金融、等々に関する知識を現代教育に期待することはできないのであるから、自らそれらを学んでいくのと同時に、学んだことを他者に共有し、社会に還元していくことが本当に大切なのだろう。フローニンゲン:2019/3/23(土)08:11

No.1787: A Ray of Sunlight

A ray of sunlight is coming down from the sky.

Today would be a peaceful day. Groningen, 10:41, Sunday, 3/24/2019

4020. 春への移行:今日からの作曲実践の工夫

今朝も少しばかり霧がかかっていたが、今ゆっくりとそれが晴れてきている。今この瞬間は、薄い雲が空全体を覆っているが、今日は一日を通して晴れのようだ。

昨日ほどの暖かさはないが、それでも寒さを感じるほどではない。せっかく天気が良いのだから、今日は午後にでも、散歩がてら街の中心部で開催されている市場に行き、オーガニックの果物をいくつか購入したい。ちょうど今日まで果物だけで食事をし、明日は残っている野菜をふんだんにつかった料理を食べたい。

春祭りのような昨日は、とても陽気な雰囲気を発していた。そして、春の夜があれほどまでに心地よいものなのかと久しぶりに実感した。

フローニンゲンは11月を迎える前あたりから寒さが厳しくなるため、ここ何ヶ月も夜に暖かさを感じたことはなかった。昨夜はなんと就寝ギリギリまでヒーターをつけないで済んだ。早朝の今は冷えるため、ヒーターをつけているが、今日も日中はヒーターをつける必要はないのではないかと期待する。

季節が春に移行しつつあることに伴って、外の世界では花の香りが芳しくなってきた。実際に昨日は、花壇のある家を通る時などにそれを感じていた。

そして、花屋の前を通った時に、春の花々のなんとも言えない良い香りが漂ってきたのである。そうした香りを嗅いでいると、春を強く実感したし、何よりも春の中で生きれることの喜びのようなものが溢れてきた。

今後外出する際には、そうした花の香りに意識を向けていきたい。また、花々のみならず、他の生物を観察することを通じて、生命の躍動そのものを実感したいと思う。

そういえば、昨日楽譜屋のドアを開け、店主にオランダ人の作曲家の楽譜が置いていないかを尋ねたときに、「ピアノの楽譜だよね?」と質問されたことが印象に残っている。その店には、ピアノソロだけではなく、ギターやフルート等々、様々な楽器の楽譜が置かれているにもかかわらず、なぜ私がピアノの楽譜を求めていることがわかったのだろうか。手も見かけもピアニストのようでは決してないため、それは不思議に思えた。

今日はこれから、読書を少しばかり行った後に、作曲実践をする。昨日購入した楽譜を早速参考にして何曲か作ってみようと思う。

以前から実験的に行おうと思っていたのだが、私はもう少し一つ一つの調の特徴を掴みたいという思いがある。一つ一つの調の色、肌触り、香りなどを含め、ある調が持つ質をより深く多面的に理解したい。

そうした思いを持ちながらも、これまでの私は、調性のある音楽を作る際には、その瞬間に直感的に一つの調を選んで作曲をしていた。今日からは実験的に、その日一日はできるだけ長短それぞれ一つの調を選び、それに特化する形で作曲をしてみようかと思う。

もちろん、曲中において転調は許可しながらも、一つの調と一日を通じて向き合っていくということを行ってみたい。おそらく、それを継続することによって、これまで見えていなかったこと、感じられなかったことが徐々に明らかになっていくのではないかと期待する。

今日の作曲実践の一つ一つがまた楽しみだ。それは常に新たなものを私に開示してくれるだろう。まさにそれは、日々新たなものを開示してくれる人生に他ならない。やはり創造活動は人生そのものだったのだ。フローニンゲン:2019/3/23(土)08:30

No.1788: The Jocular Sun

The sun is playing the clown. It is endearing. Groningen, 16:23, Sunday, 3/24/2019

4021. 市場での発見

今日の午前中は思っていた以上に寒かったが、午後から徐々に気温が上がってきた。先ほど、散歩がてら街の中心部の市場に行ってきた。

今日は土曜日だからか、家族連れの人たちが多く、市場はとても賑わっていた。今日改めて市場の店を確認していくと、ナッツ類を取り扱っている店は二つほどあり、一つは全てオーガニックのものを扱っていることを発見したため、次回以降はこの店でアーモンド、くるみ、マカデミアナッツなどを購入したいと思う。

また、以前足を運んだ魚を扱っている店を今日も覗いてみたところ、マグロの刺身がまた置かれていたので、来週足を運ぶ際にはぜひ購入したいと思う。今日の目的は、市場の散策と合わせて、果物と野菜を少々購入することであった。

オーガニックの果物と野菜だけを取り扱っている店は前回と同じ場所にあり、そこに足を運んだ。そこで私は、ケール、ミニトマト、レモン、リンゴを購入した。

レモンに関しては、朝半分ほど絞って水に溶かして飲もうと思っており、果実の部分は夜に食べる予定である。ケールに関しては、ジョン・エフ・ケネディ大学時代にホリスティック健康学科に在籍している友人からその栄養の高さについて話を聞き、ニューヨークやロサンゼルスに住んでいるときは、カレーにふんだんにケールを入れていた。

だがそれ以降はしばらくケールを食べることがなく、今日偶然それを見つけたので購入してみた。改めてケールについて調べてみると、それは「野菜の王様」と呼ばれており、現代人に不足しがちな栄養を多く含んでいる。

栄養素を挙げればきりがないが、私が面白いなと思ったのは、ケール100gに含まれるカルシウムの量は、100gのヨーグルトや牛乳よりも多く、さらにそれらよりも吸収率が高いことである。この背景には、ケールにはカルシウムの吸収を助けるマグネシウムが豊富に含まれており、牛乳はマグネシウムがあまり含まれておらず、牛乳単体でカルシウムを摂ろうとしてもうまく吸収されないことが挙げられる。

さらにビタミンCに関しては、イチゴやグレープフルーツよりも多いということを知って驚いた。

日本では、ケールは青汁の原料として有名であり、その栄養については広く知られているかもしれないが、普段あまり口にしない食べ物のように思える。そんなケールを久しぶりに購入し、明日から早速食べてみようと思う。

今日は昨日と同様に、果物だけの食事にする。小さなリンゴを二つ、ブルーベリーを少々、バナナ一本を食べて終わりにする。明日から野菜を食べ始めるが、先日届いた断食に関する書籍を読んでいると、基本的には果物と野菜だけの食生活を送るようにし、週に二、三回ほど魚を食べるようにすれば十分だということが見えてきた。

食生活を見直していると、日常の他の活動についても自然と見直すようになるから不思議だ。ここ最近は意識的に、夕食時にCNNを見ていたが、やはりTVを数分でも見ていると心身に気持ち悪さがもたらされるため、視聴するのを今日から止めにする。

その代わり、今夜からまた、以前聴いていた音楽理論のポッドキャストを聴きたい。身体にどのような食べ物を取り入れるのかと同様に、精神に何を取り入れるのかを吟味することは大切であり、TVから持たされる情報は内容的にもエネルギー的にもとても質の悪いものだということがやはり明白であった。

そうしたことから、以前と同様に、今後もTVを見ない生活を送ろうと思う。TVというのは、televisionの短縮形というよりも、“toxic violence”の短縮形とみなすことができるかもしれない。フローニンゲン:2019/3/23(土)16:04

4022. オランダ生活三年目の大きな気づき

時刻は午後八時に近づいてきている。振り返ってみると、今日も非常に充実した一日であった。

一日一食の生活を始めたことにより、これほどまでに日々の生活の質が向上するとは思っておらず、少々驚かされている。これまで私はいくつもの仮説を立てて、手荒れの改善に努めてみたが、その最も大きな原因は体の内側に関するものであり、有機果物と有機野菜を中心にした良質な食事を一日一回だけ撮ることによって、手荒れが完治寸前に至っていることにも驚かされている。

集中力に関してもそうであり、スマートドラッグを製造している医薬会社には申し訳ないが、あのような人工的なドラッグに頼らずとも、私たちは腹を空かせたままにすることによって、同様の、あるいはそれ以上の集中力を得ることができる。

断食に関しては準備とその後の回復期においてどのように過ごすべきか、また断食をしてはならない人の特徴などには注意をしなければならないが、一日一食の食生活においてはそれほど準備は必要ではなく、今日からでもすぐに始められるのではないかと思う。

確かに、私はもともと朝は果物だけにしていたし、昼はサラダだけの生活を三年間送っていたため、一日一食の生活が始めやすかったと言えるかもしれない。とはいえ、一日一食の生活を始めること、及びそれを続けることが難しいというのであれば、それはそれほどまでに意思の力が弱体化していることの表れとして自己認識することができるように思う。

そこまで意思の力が減退している場合には、まずは「朝食をしっかり食べなければならない」という流布した言説を自ら検証するために、朝食を食べないことから始めてみるのがいいだろう。

午後に一つ、思わず笑ってしまうことあった。それは、私はオランダ人ではないという気づきを得たことである。

オランダで三年間暮らしてみてようやく気づいたのがそれだった。身体的にも精神的にも、文化的にもオランダ人足りえないし、そうなる必要は一切ない。

そうした気づきから、私はふと、オランダ人が幼少期から食べている乳製品がどうも自分の身体にあまり合っていないということがわかったのである。この三年間、私はこれまでの人生の中で最もチーズを食べていた。ほぼ毎日チーズを摂取し、朝か夜にヨーグルトを飲んでいた。

調べてみて驚いたのは、日本人はそもそも乳製品を多く摂取するような民族ではないということであり、そうであるにもかかわらず、乳製品の消費量は1970年代以降に増加の一途をたどっている事実である。もともと私たちの祖先は乳製品を摂取していなかったのに、いつの時代からか乳製品が日本の食生活に取り入れられていき、食生活の欧米化は進むばかりである。

今日の日記の中でケールについて取り上げた時に、牛乳よりもケールの方がカルシウムが豊富であり、その摂取量も高いということを述べた。牛乳についても色々と調べてみると、日本のスーパーで売られているほとんどの牛乳は、ストレス下に置かれた牛が、遺伝子組換え食品を含め、劣悪な食物を与えられながら絞り出された液体であることを知った。

もちろん、生産者の中には、牛を大切に育て、牛乳の質にとことんこだわっている作り手がいることは知っている。だが、そうした牛乳は残念ながら、一般的なスーパーではほぼ間違いなく売られていないとのことである。

牛乳を含めた乳製品について色々と調べていると、私の母がかつて、「牛乳はあまり体質に合わない気がして、昔から全然飲んでいない」と述べていたことを思い出した。私は、美的感覚も含め、母の直感的な認識がいつも的を得ていることに驚かされるが、その発言もまたかなり的を得たものなのではないかと思わされる。

つまり、乳製品というのはもともと日本人の身体特性に合わないのではなかということである。この点において、インテグラル理論のタイプ論を活用するまでもないかもしれないが、ある食事が合う・合わない民族、合う・合わない人間という様々なタイプがあるのだろう。

オランダで生活を始めてから乳製品を多く摂り始めてから半年ほど経ってから、手荒れが慢性化していたことを見ると、私にとっては乳製品というのは体に合わないのだろう。そうした学びが本日あった。フローニンゲン:2019/3/23(土)20:07

4023. 悪魔の螺旋

いろいろ自分自身の体験と照らし合わせながら学習を進めていくと、世の中における悪魔的存在の顔が明確に見えるようになってくる。例えば、ここ最近取り上げているように、「しっかり食べないといけない」と主張する人は悪魔的性質を持っているし、過食を煽るマーケティングをしている会社というのもまた悪魔的性質を内在的に持っている。

ただ少し注意をしなければならないのは、この文脈において過食ということに関しては、前者の悪魔も後者の悪魔も被害者である可能性があることだ。いろいろと調べてみると、食の質の観点から劣悪な食べ物を提供している大手の食品会社のCEOたちは、軒並み自社の食品など決して口にしないそうだ。

特にそれは米国の会社に多く見られるように思う。これは推測だが、おそらくCEOが自社の食品を口にしなくても、エグゼクティブ層以下、あるいは一般の社員は自社に忠誠を誓う形で自社の製品を口にしていることが多いのではないかと思われる。

この世界は、ケン・ウィルバーの指摘しているように、ホロン構造で構成されているのであれば、悪魔にも当然階層がある。上記の例で言えば、明らかに人間の健康を害するような食品を製造している会社の従業員たちは悪魔といえば悪魔だが、彼らもまた無知なる被害者である可能性がある。

一方、その階層の上にいる悪魔は、その会社のCEOなのだろう。そしてこの悪魔の螺旋はおそらくまだ続く。

闇夜を迎えた外の景色を眺めながら、そのようなことをぼんやりと考えていた。

この一年間は、街の中心部の市場に通い、オーガニック食材を購入し、それを食べ続けることで、一年間かけてゆっくりと身体をデトックスさせていこうと思う。言い換えると、この一年間に行いたいことは、身体を完全に新たなものに作り変えることである。

こうした作業は、身体エネルギーの次元から行うことは賢明ではなく、基礎となる物理的な身体を作り変えていくことが重要である。とにかく、ホロン階層の下位に該当する基礎ホロンから改善を施し、その土台を確固たるものにしていく。

まさか自分がオランダのフローニンゲンで四年間も生活を送るとは思っておらず、四年目の生活をこの地で行うことをもたらしたのは、おそらく食生活の抜本的な変更の必要性を挙げることができるだろう。いや、そもそも私がフローニンゲンにやってきた深層的な意味は、食生活を根本的に変えることだったのではないかと思った。

しかも、その最初の三年間は、それに気づかせるための期間だったのだ。三年間というのは確かに長く、その長さを嘆いてはならない。私は三年でそれに気づけたのだ。

いやもっと言えば、それに気づくためには、これまでの30数年間の人生経験が必要だったのである。一日に三食食べるというこれまでの私は、食に関して究極的な愚か者であった。

食を取り巻く社会的な構成概念や、ある種社会洗脳的な実践や言説を一切客体化できていなかったのだ。そうしたものに気づけない愚鈍な人間として30数年間生きてきた。

私はおそらく、自分に子供ができたら、同じ過ちを犯さないように、正しいと思われる知識はしっかりと伝承していきたいと思う。もちろん、子供は身体的な成長が完全に止まるまでは、腹八分を基本としたしっかりとした食事が必要だろうから、子供が成人したら、今行っている食実践に関する知識と方法を是非とも伝えたいと思う。

今自分が行っている食実践に関して、断食をいきなり勧めることは難しく、それを行うためには多くの知識が必要であるのと、考慮しなければならない注意事項が諸々とあるため、まずは一日一食生活の実践を両親に勧めてみようと思った。

できることなら直接会ってこの食生活について説明したいところだが、それが難しいため、一日一食に関する和書を吟味し、メッセージを添えて三冊を両親に贈った。それらの書籍を読むことによって、愛犬同様に、二人には健康なままで長生きをしてもらえたらと思う。フローニンゲン:2019/3/23(土)20:34

3月23日(土)の曲一覧

Op.977 小鳥の舞

Op.978 青い鳥

Op.979 遊園地的土曜日

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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