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3985-3990:フローニンゲンからの便り 2019年3月17日(日)


タイトル一覧

3985. サトルボディと心の耳で聴くこと

3986. 意識の状態を楽しむことの大切さ

3987. 同じ音形を連続して活用することについて

3988. ベートーヴェンの言葉より

3989. 篠田桃紅さんと小松美羽さんの展覧会への期待

3990. この世界の予測不可能性と残酷さ

3985. サトルボディと心の耳で聴くこと

昨日は午前一時あたりに就寝したからか、今日は午前九時頃まで寝ていた。

先ほど目覚めた時、フローニンゲンの空は青く清々しかった。ところが一転して、つい先ほどから雨雲が空を覆い、今は小雨が降っている。

どうやら今日は夕方まで雨のようであり、夕方からは雨が止むようなので、そこからスーパーに行き、果物や野菜を購入したいと思う。

フローニンゲンは、明日まで最高気温が10度を下回るが、明後日からは10度を超えてくる。また、幸いにも明日からは一週間ほど雨マークが見られず、良い天気を期待することができる。

今年のフローニンゲンはそれほど寒くなかったが、雨が例年よりも多かった印象である。そうした雨続きの日々が一旦落ち着き、暖かくなってくれることを嬉しく思う。

いつものように、まずは今朝方の夢について振り返りをしておきたい。夢の中で私は、ここ最近一日一食生活を送る中で出会った、若返り遺伝子と呼ばれるサーチュイン遺伝子について、見知らぬ人に説明をしていた。

どのような背景でその遺伝子を取り上げることになったのか定かではないが、私はその人に、一日一食の食生活を送るとその遺伝子が活性化される話をしていた。今朝方の夢に関してまず思いつくのはその場面である。

今、その他の場面についても思い出そうとしているが、どうも上手くいかない。感覚としては肯定的な内容の夢をその他に見ていたように思う。

自転車に乗って欧州のどこかの街を移動している断片的な場面があったことを思い出す。今朝方の夢の中には、覚えている限り、私の友人は登場していなかったように思う。

今朝方の夢の印象が薄いのは、もしかすると、昨日にコンサートに参加したことが関係しているかもしれない。

ちょうど先日、デン・ハーグに在住している友人と話をし、彼女が面白い話をしていた。それは、例えば人の話を聞く際に、視覚を使うよりも、聴覚だけの方が脳への刺激が多いのではないか、というものだ。

この点に関して一つ思い出すのは、私が米国西海岸に住んでいた時、成人発達理論の大家であるオットー・ラスキー博士に師事しており、彼が提供する学習プログラムの進め方に関するものだ。このプログラムは、今となっては少し古風だが、全て電話会議システムを通じて行われていた。

SkypeやZoomのように相手の顔を見ながら話すのではなく、声だけで二時間ほど発達理論を学んでいくことを二年間ほど続けていた。ある日ラスキー博士に尋ねてみたところ、もちろん対面で話をすることによって、視覚的に相手を理解することは可能だが、このプログラムでは、視覚的な情報に惑わされるのではなく、相手が何を話したかを丹念に聞き取るために、意図的に声だけで学習するようにしている、と述べていたことを思い出す。

この考えをもとに、私もオンラインゼミナールを行うときなどは、お互いの顔は伏せたままで、基本的には声だけで学習するような環境を作っていた。一つ興味深いのは、確かに相手と対面し、視覚的に目の前の人物を見ながらコミュニケーションすることによって、相手の身体エネルギーなどを感じることができるが、それは声だけの場合においても可能だということである。

声というのは、紛れもなく私たちの身体が発しているものであり、その声にその人のエネルギーが乗っているのである。そうなってくると、物理的な身体であるグロスボディを見ながらコミュニケーションしなくても、十分に相手の身体情報を得ることが可能なのだと思う。

いやむしろ、声だけの方が、その声に乗っている微細なエネルギーに意識を集中するがゆえに、相手のエネルギー体としての身体、すなわちサトルボディの状態を深く把握することにも繋がりうる。そのようなことを考えながら、昨日のコンサートについて振り返ってみると、私は途中で目をつぶって音に意識を集中させていた。

視覚的にオーケストラや指揮者を捉えるのではなく、それを一切止めて、音だけに意識を集中してみたのである。すると上述の友人の指摘のように、そこで得られる視覚情報は非常に豊かであり、目に見えない音楽空間の情景を捉えることや、音楽と感応して起こる自分の内側の感覚をより捉えやすかったように思う。

ここから私は、心の耳で聴くということの奥深さを改めて知った。フローニンゲン:2019/3/17(日)09:54

No.1766: The Other Side of the Wind

A gentle wind is blowing through Groningen.

I’m meditating upon the other side of the wind. Groningen, 10:07, Monday, 3/18/2019

3986. 意識の状態を楽しむことの大切さ

先ほどまで降っていた小雨が止み、雨雲も消え、今は晴れ間が広がっている。フローニンゲンでは、このように変化が目まぐるしい天気は日常である。

今日は日曜日ということもあり、辺りはいつも以上に平穏だ。昨夜、コンサート会場から自宅に歩いて戻っている時に、フローニンゲンの街の静かさに改めて感銘を受けた。

特に、自宅周辺は静寂であり、こうした静寂さによって自分の日々の生活が支えられていることを改めて実感した。そのような生活環境を提供してくれるフローニンゲンでさらに一年間生活できることを嬉しく思う。

この街で四年間も生活を送ることになるとは思ってもいなかったが、この街には私をそこに留まらせる何かがあるのだと思う。もっともわかりやすいものが、まさに落ち着いた生活環境だと言える。そうした環境の中で、今日も自分の取り組みに従事していきたいと思う。

昨夜のコンサートに参加することによって、いろいろと気づきが得られたことは確かである。ただし、夜のコンサートに参加してしまうと、どうしても就寝時間が遅くなり、生活のリズムが崩れてしまいがちなので、ここからしばらくは夜のコンサートに出かけていくことを控えようと思う。

あるいは、仮に夜のコンサートに参加した場合には、昨夜のようにコンサートから戻ってきて日記を書いたりするのではなく、すぐに就寝するように心がけたいと思う。当面は夜のコンサートに参加する計画はないが、仮に今後夜のコンサートに参加することがあれば、そのあたりに気をつけたいと思う。

昨日のコンサートに参加しながら一つ思っていたのは、意識の特殊な状態を楽しむことの大切さである。ケン・ウィルバーが提唱したインテグラル理論に精通している人にとっては、一時的な意識の状態と恒常的な意識の段階——もちろん、意識の段階も置かれているコンテクストによってダイナミックに変動するのだが——を区別することの大切さは周知のことかと思う。

特殊な意識の状態に過度に囚われてしまうことは問題があるが、インテグラル理論においては、どうしても意識の状態よりも意識の段階に焦点が当たってしまい、意識の状態が持つ豊かさについては蔑ろにされているように思う。

実際に、インテグラル理論の提唱者であるウィルバー自身も、意識状態を五つほどしか明示していないが、意識状態を専門に研究しているあるアメリカの研究者は、状態“states”とアメリカ合衆国“United States”をかけたユーモアを交えながら、「意識の状態はアメリカの州ほどある」と述べていたことが印象に残っている。

実際のところ、意識の状態というのは、ウィルバーの提唱するインテグラル理論で明らかになっている以上に多様な種類を持っており、一つ一つの意識の状態は豊かな意味や特殊な現象を私たちに開示してくれる。

昨夜の音楽体験も、まさに一つの特殊な意識状態によって生まれたものだったように思う。そうした一時的な意識状態によって喚起される感覚や思考は実に興味深く、私はコンサートを聴いている最中、そうした感覚や思考の流れに身を委ねることにしていた。

しばらくそのような状態に浸っていると、一時的な状態を楽しむことがいかに重要であり、それなくして人生とはいかほどのものになりうるかを考えていた。そもそも、私たちの人生というのは仮にそれが100年続いたとしても、最初から仮初めのものなのである。

人生とは絶えず移ろいゆくものであり、人生はある意味、様々な一時的な状態の連続だと言えるかもしれない。そうした特質を持つ人生においては、今その瞬間の状態を謳歌できるか否かに良き人生の分かれ目があると言えるように思う。

今朝は目覚めが遅かった都合上、これから一曲ほど曲を作る。今後は、一時的な状態に身を任せて曲を作り、仮に自分の音楽を聴いてくれる人がいるのであれば、一時的に今という瞬間を楽しんでもらえるような音楽を作っていきたいと思う。フローニンゲン:2019/3/17(日)11:00

No.1767: Emotional Stairs

I’m just seeing a numerous number of large masses of clouds until I become them. Groningen, 14:08, Monday, 3/18/2019

3987. 同じ音形を連続して活用することについて

時刻は正午を迎え、優しい太陽光が地上に降り注いでいる。午前中は雨が降る時間帯もあったが、今はすっかりと晴れ渡り、穏やかな日差しがフローニンゲンの街を包んでいる。

今、小鳥の鳴き声が外から聞こえてきており、小鳥たちもこの晴れ渡る天気を喜んでいるかのようだ。今日はこれから、一件ほどオンラインミーティングがある。

ミーティングが終わったら、再び作曲実践を行いたいと思う。昨日のコンサートを経て、音楽に向き合う姿勢を正されたような感覚があり、ここからまた作曲理論の学習と作曲実践の双方を着実に進めていこうと思う。

午前中に作った曲は、一編の詩のように短いものであったが、それでもどこか心地良い音が聞こえて来るかのような曲であった。一つ一つの曲は、その瞬間の自分の内面を反映しているということ、そして曲の中に、その瞬間の自分がどのように生きていたのかが滲み出ていることを絶えず念頭に置いておきたい。

午前中はルモワンヌに範を求めて一曲作った。昨日の日記あたりで引用したシュタイナーの言葉を思い出す。

「過去の曲は未来の創造の肥やしである」という趣旨の言葉がとても印象に残っている。過去の偉大な作曲家が残した一つ一つの曲は、未来の曲が誕生するために不可欠な土壌であり、私はそうした曲の恩恵を受けながら絶えず曲を作っていこうと思う。

それがおそらく、過去の作曲家から何かを受け継ぎながら発展させていくことの意味なのだと思う。まさに発達の原理である「含んで超える」というのは、作曲実践やその他の芸術領域の実践にも当てはまることだろう。私たち人間は、受け継ぎなら発展させていくことを通じて文化を育んでいく生き物なのかもしれない。

昨日の作曲実践を今振り返ってみたときに、そういえば私はまだ、曲の中であるパターンの連続をうまく活用できていないことに気づかされた。昨日の作曲中の自分の感覚を再度思い出してみると、参考にしていたラヴェルの曲には、巧みに連続的なパターンが使われていたのだが、そこで連続していたのは全く同一の音形であったため、そうした連続的なパターンを四回ほど繰り返すことに私はためらってしまった。

ベートーヴェンは繰り返しに関して、「一回よりも二回はなお良しである。ただし三回目は気をつけろ」という言葉を残している。楽曲の中で三回以上同じものを繰り返すときには注意が必要だというのはわかったが、いかように注意をすればいいのか、言い換えると、三回繰り返したとしても美しくあるいは面白く音を響かせるにはどうしたらいいのかがまだ掴めていない。

曲を作る際には、一貫性と多様性のバランスが重要だと言われており、同じ音形を繰り返し使うというのは一貫性の方に該当するものだろう。昨日は、同じ音形を繰り返そうとした時に、やはり三回目からは面白味がなくなってしまうように思えたので、少しばかり音形を変える工夫をしてみたくなった。

もちろん、それは悪いことでは決してなく、生き物としての曲を作りながら、音形を変えた方がいいと直感的に判断したのなら、それは変えた方がいいのだろう。ここからは、どのような状況(曲のコンテクスト)において、同じ音形を連続して活用することができるのかを探っていきたいと思う。フローニンゲン:2019/3/17(日)12:31

No.1768: Underground Creatures

It seems that today’s weather awakes creatures in the earth.

I’ll go for a walk shortly. Groningen, 16:04, Monday, 3/18/2019

3988. ベートーヴェンの言葉より

日曜日がゆっくりと過ぎていく。午前中の雨はすっかり止み、今は青空がフローニゲンの街を包んでいる。

先ほど、ベートーヴェンが残した一連の言葉を眺めていた時に、ベートーヴェンがなぜ作曲をしているのかの理由について述べた言葉に大きな共感の念を持った。端的には、ベートーヴェンは自分の内側にあるものを外側に出すために作曲を行っていたのである。

もちろんそれだけではなく、ベートーヴェンは絶えず後世のために曲を作ることを意識して作曲実践を行っていた。とはいえ、ベートーヴェンの述べるように、作曲実践というのは、その瞬間の自分の内側にあるものを言葉ではなく、音として表現し、それを通じて自己をこの世界に在らしめる行為でもあるのだろう。

今日はこれから、オンラインミーティングが一件あり、それが終われば、そこからは旺盛な作曲実践をしたいと思う。今は読書よりも作曲実践を優先させることが大切であり、読書よりも日記の執筆を優先させたい。

毎回の作曲実践を通じて、その瞬間に自分がこの世界にいたということを確かに感じたい。そして、一つ一つの曲が何らかの形で後世に受け継がれるようなものにしていきたいと思う。

ベートーヴェンは、後世のために曲を書いていると述べていたが、おそらくその真意は、後世に向けて作曲することによって現世に関与していく、ということなのだろう。

ベートーヴェンが残した一連の言葉には考えさせられることが多々ある。例えば、「音楽とは精神と感覚の世界を結ぶ媒介のようなものである」という言葉には、自分が日々作曲を行っている過程で感じていることに言葉を当ててもらった気がする。

曲を作っている中でいつも感じているのは、言葉として表現し得ぬ感覚が形になっていく不思議な感覚であり、それはいくら言葉を積み重ねていっても生まれない類のものだ。また、言葉を媒介させず、音として内側の感覚を表現することを通じてしか発見し得ぬものがあることにも気づかされる。

そのようにして生み出された音楽が、人間の精神と言葉にならぬ感覚をつなぐ役割を果たしているというのは納得がいく。もちろん、ベートーヴェンは「感覚」という言葉しか使っておらず、それは「言葉にならない感覚」だけを指しているわけでは決してないのだろうが、私が作曲中に感じていることから解釈すると概ね上記のようなものになる。

言葉にならないものを音として表現していくことの奥深さについては、ベートーヴェンはまた「音楽はあらゆる知恵や哲学よりも高度な啓示である」という言葉によって表現している。確かに、私は哲学書ないしは思想書を好んでいるが、ここのところ思うのは、自らの精神を涵養していくに際して、それらの書籍が果たす役割は大きいながらも、音楽がもたらす体験の方が自らの精神を育んでくれることにより力を貸してくれているのではないかということである。

音楽は、精神に治癒をもたらすのみならず、精神の変容をもたらし得るというのは、この点と関係している。音楽には何らかの啓示が含まれている。

自分が作る曲の中には、自分にとっての啓示が絶えず含まれている。そうした啓示に気づき、それを元に絶えず創造活動に営むことが、自らの精神を涵養する最良の道になるのではないかと思う。

時刻は午後の四時を迎えようとしている。すっかり天気が良くなったので、これから近所の河川敷のサイクリングロードに散歩に行き、ついでにスーパーに買い物に行きたい。

美味しい野菜、そして今日は久しぶりに豆腐でも食べようかと思う。フローニンゲン:2019/3/17(日)15:59

3989. 篠田桃紅さんと小松美羽さんの展覧会への期待

つい今しがた、散歩と買い物から帰ってきた。日が出ていたために暖かいと思って外に出てみると、予想以上に寒くて驚いた。また、昨日に引き続き、強風が吹いており、それが冷たい風となって全身に吹き付けていた。

三月も半ばを迎えようとしているが、まだまだ寒さの続くフローニンゲンである。とはいえ、明日からは少しずつ気温が上がるようなので、それには期待が持てる。

やはり例年の日記で書き留めているように、五月末ぐらいまでは冬用のジャケットが必要であり、下手をするとマフラーと手袋がまだ必要になりそうだ。

フローニンゲンでの生活は、この八月から四年目を迎える。毎年若干気候が異なるように感じられ、毎日変化に富む天候であるから、それらを感じながら日々を過ごしていると飽きることがない。

自分の内面世界のみならず、天候といった外面世界からも日々新たな気づきがもたらされる。先ほど散歩をしている最中に、改めてフローニンゲンでもう一年ほど生活を送ることができることに感謝をした。

フローニンゲンで迎えた最初の年は、欧州との出会い、ないしは衝突があり、表現が難しい孤独感を感じていた。二年目以降は、徐々に欧州の土地に馴染んでいき、今となっては欧州で根を下ろした落ち着いた生活を送ることができており、欧州を離れることが難しくなっている。以前より私の魂が探していた安住の地というのはここにあるのかもしれないという思いすら生まれてくる。

昨日、アリス=紗良・オットさんのピアノ演奏を聴くことができたことは大きな幸運であった。ちょうど昨日、上の階に住むピアニストの友人から、今月末に街の中心部のルター協会で古楽器のコンサートがあることを教えてもらった。

彼女がハプシコードとフォルテピアノを演奏し、オランダ人の男性がオルガンとハプシコードを演奏するプログラムになっている。開始時刻は夜の八時とのことだが、昨日のコンサート会場よりも近く、何よりも二人の演奏に関心があるため、ぜひ足を運ぼうと思う。プログラムの内容は、ブクステフーデ、バッハ、ラモー、メンデルスゾーンらの曲とのことである。

様々な縁や偶然が重なり、昨日のコンサートや上述の友人のコンサートなどに参加する幸運を得ているのだとつくづく思う。現在、日本人の芸術家で注目をしているのは、今年で106歳を迎えられる書道家の篠田桃紅さんと、現代アーティストの小松美羽さんであり、お二人の展覧会にいつか参加してみたいと思っている。

二人の展覧会が日本で開催される時期を見計らって、次回の一時帰国のスケジュールを組みたいと考えているほどだ。調べてみると、篠田さんの作品に関しては、岐阜現代美術館に多く所蔵されているようであり、ルドンの作品を所蔵している岐阜県美術館とも近く、次回の一時帰国の際に岐阜県に立ち寄り、数日ほど岐阜に滞在する形で二つの美術館に足を運んでみたいと思う。

小松さんの作品に関しては、それらが日本のどこで見られるのかまだよくわかっておらず、引き続き調べてみたいと思う。オランダか欧州のどこかの国で展覧会を開いていただければ、ぜひとも足を運んでみたいと思うのだが、今のところはそうしたイベントがないようだ。

昨日のアリス=紗良・オットさんのピアノ演奏と同様に、何かの縁と偶然が重なり、お二人の作品を実際に拝見させていただく機会に恵まれることを願っている。フローニンゲン:2019/3/17(日)17:14

3990. この世界の予測不可能性と残酷さ

時刻は午後の八時を迎えた。今日の午前中は雨が降っており、そこから晴れ間が広がり始め、夕方に一瞬雨が降ることがあった。そして今は、闇に包まれた穏やかな夜を迎えている。

今日の天気は本当に不安定であった。あえて肯定的な言葉に置き換えると、それは変化に富んでいたと言えるだろう。それは私たちの人生をそっくりそのまま映し出しているかのようだ。

私たちの人生も絶えず変化を内包している。それを不安定だと見て取ることもできるが、変化を所与とするのであれば、人生が安定的であるということの方が不自然であることが見えてくる。

まさに私たちを取り巻く自然は変化に富んでいるのだから、私たちの人生が変化に富んでいることも自然なことだと見なせるかもしれない。

今日は午前中にベートーヴェンが残した言葉を調べる時間があった。それらのいくつかについては今日のこれまでの日記の中で言及している。

まだ言及してないものについて述べるならば、ベートーヴェンは、作曲を通じて多くの人々に幸せや喜びを与えることを崇高なことだとみなしていたことを物語る言葉があった。昨日のコンサートでの体験を思い出すと、やはり音楽には人々に幸福感や喜びをもたらす力があることを否定することはできない。

昨日、コンサートホールにいた私は、その恩恵を存分に享受する幸運を得ていた。一方で、そうした一時的な幸福感や喜びに浸っている最中に、ふと周りを見渡した時、周りの観客も同様のことを感じていることが奇妙に思われたのである。

この点についてはもう少し説明をしなければならない。確かに私自身も幸福感や喜びをその場において感じていたのだが、そうした感覚が仮初めのものであること、さらには、この瞬間において、音楽を通じて幸福感や喜びを得られぬほどに哀しみに打ちひしがれている人たちがこの世界に存在していることにはたと気づいたのである。

先週の金曜日に、非常に平和な国であるニュージランドで悲惨な事件があったことは多くの人が知っていることだろう。二つのモスクに侵入したオーストラリア人が、50人もの無実な人間をマシンガンで銃殺した事件である。

このニュースについては金曜日以降、連日CNNで報道されている。コンサートに出かける直前にも、そのニュースを見ていたためか、コンサートホールで幸福感や喜びに浸っている自分に対して違和感を感じたのである。

一体この人間社会というのはいかなるものなのだろうか。ある国のある街の人間たちは、夜な夜なコンサートに出かけ、そこで音楽に酔いしれている。一方で、世界のその他の場所においては、悲嘆にくれる人たちがいる。

そして、前者の人間たちも明日に何が起こるかわからないという実存状況の中を生きているということ。人間の生が持つ予測不可能性と残酷さを忘れてはならない。

昨日、母校の会報誌の別冊を読んでいた。それは首都直下型地震を取り上げたものであった。

その別冊記事を読みながら、地震のリスクをどれだけ説明しても、地震に対する備えの重要性についてどれだけ説明をしても、多くの人の耳には届かないことのやるせなさを感じていた。

これは地震に限ったことではないかもしれないが、人は今日と同じような日が明日も続くという純朴な発想のもと、迫り来る危機については一切思考が停止してしまう特性を持っているのかもしれない。あるいは、自然を含め、私たちの存在を遥かに超えた力が存在していることに対して認識することができないほどに、自我が肥大化していると言えるかもしれない。フローニンゲン:2019/3/17(日)20:18

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