時刻は午後の五時を迎えた。早朝には晴れ間も見せていたが、天気予報の通り、午後からは霧のような小雨がぱらついていた。
ちょうどランニング兼ウォーキングに出かけた際には小雨が止んでおり、今日も全身を適度に動かすことができた。今日もまた、昨日に引き続き、近所の建設中の建物をぼんやりと眺めていた。
ぼんやりと眺めているだけのはずだったが、色々と気づきが自発的に湧いてきた。例えば、昨日までの私は、自宅の方からその建設現場を見たときに見える一棟の建物しか見ておらず、実はその後ろには全く同じ建物が建設されていたという点である。
見る角度を変えることによって新たなものが見えてくるというのは、世界認識の原理なのかもしれない。
後ろの建物をよくよく見てみると、それは前に立っている建物とシンメトリーをなしていた。二つの建物の屋根の傾斜が、M字型を作っていたのである。
その様子を眺めながら、こうした建物の設計図を描く建築家の能力に改めて感銘を受け、その設計図通りに作業を進めていく作業員たちの能力に感銘を受けた。おそらく、私などが建物の設計図を描けば、ほぼ間違いなく構造上の問題が多々生まれるだろう。
また仮に、私が作業員であれば、設計図通りに建築を進めることを怠ってしまう点などがあるだろう。そうしたことを総合的に考えてみた場合に、建築家と作業員の仕事の価値を知る。
なぜ私が、近所の建設中の建物を毎日観察してるのかよくわからない。強いてあげるならば、それは素朴に興味を持たせてくれるから、というのが理由になるだろうか。
私としては、やはり建築と作曲を関連づけて考えてみたくなる。堅牢かつ緻密に構築された建物とベートーヴェンの曲について思いを馳せる。
建築的な作曲という観点でいえば、バッハもまた偉大な作曲家であった。バッハやベートーヴェンの残した曲に建築美を見出し、そうした美を創出する方法について探究を続けていきたいと改めて思う。
河川敷のサイクリングロードを歩いている最中、昨日もふと立ち止まった箇所で足を止めた。道の脇には、裸の木があり、よくよく見ると、枝にはつぼみが付いている。
さすがに昨日とはそれほど変化していなかったが、おそらくもうしばらくすると、突然非線形的な発達が起こるのだと思う。そして、私の目には大きな発達は見られなくても、つぼみの内側には、絶えず発達の方向に向かっていく内在的な運動がなされているのだということにも気づく。
そこからふと、発達の当事者と、その人を支える人たちの双方が、当事者の内側で起こっている発達的な運動にどれだけ気付けるかが大事だと思わされた。「発達が目に見えないから発達などしていない」とみなしてしまうのではなく、私たちの内側で絶えず行われている目には見えない発達運動に光を当てること。それはとても大事なことだろう。
今日の散歩を通じて、着実に冬が終わりに向かっていることを再度実感した。生命力に溢れる春に対する期待が膨らむ。フローニンゲン:2019/2/21(木)17:29
No.1707: Our Journey
I often see those who excessively criticize others’ activities.
Perhaps, their responses are a kind of self-defense mechanism of their ego. Groningen, 15:22, Friday, 2/22/2019