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3808. 夭折した作曲家への関心:昇華作用を持つ作曲実践


時刻は午後の七時半を過ぎた。つい今しがた、夕食を摂り終えた。これから就寝に向けて、一日を締め括る諸々の活動に従事していく。

今日は一日を通して天気が悪く、今は小雨の雨脚が強くなった。一台、また一台と、水しぶきを上げて走る車の音が聞こえて来る。

今日は夕方に、アーネスト・ベッカーの書籍を読み進めていた。その内容と、本日読み進めていた音楽理論に関するテキストの内容が相まって、自分の作曲活動の意味が根底から変化していることに気づいた。

これまでの私は、作曲実践を通じて、自己をより深く知ることや、自分の内面世界及び人生を深めていくことに焦点を当てていたように思う。だが、作曲を始めて一年ほどが経ち、作曲実践が持つ意味はそこに留まらなくなった。

端的には、作曲実践が自らの死と向き合うこと、そして死を人生に調和させる試みとなったのである。

人間はいかようにして死と真に向き合い、それを超越していくことができるのか。それを作曲実践という創造活動を通じて探究し、それを実際に実現させていく。

作曲実践一つをとってみても、過去の自分が持たせていた意味合いはもうそこにはない。作曲の意味が根本的に変わってしまったのだ。

こうした様子を見ていると、私たちが構築する意味、さらには見出す意味は、本当に変容していくものであることがわかる。まさに、ロバート・キーガンが述べているように、私たちは意味を構築することを宿命づけられた存在であり、自己の深まりと共に、私たちが見出す意味は深まっていくのだ。

作曲実践が持つ意味の変化を目の当たりにするとき、変容という現象が自分の中で確かに起こったのだということがわかる。

今日は昨日に引き続き、シューベルトのピアノ曲をずっと聴き続けている。実は私は、夭折した偉大な作曲家に対して、どこか親近感を覚え、彼らに対して強い関心を示す傾向にあることがわかる。

若くしてこの世を去った作曲家の代表例としては、モーツァルト、シューベルト、ショパンなどが挙げられる。彼らの音楽を聴いていると、時々、死の足音を聴いたり、死の香りを嗅ぐかのような感覚に陥ることがある。

どの作品のどこにそれらを感じるのかまでは把握していないが、全体として、彼らの音楽の中には、死の影が存在しているように感じられるのである。

彼らは実際に若くしてこの世を去った。彼らは必ずや、どこかの時期から、自らの死を意識しながら創造活動に励んだに違いない。そうしたことが、彼らの音楽の中に死の影を宿らせているのだと思う。

彼らの死生観とはいかようなものであり、それはどのように彼らの音楽の中に具現化されているのか。そうした観点を持って彼らの音楽と接し、今後の自分の作曲実践につなげていきたいと思う。

チャイコフスキーが、悲しみを絶えず美しく昇華させていたように、死という現象、及びやってくる死が引き起こす感覚を昇華させることが自分にできるだろうか。その実現に向けた学習と実践を継続させていきたい。

これまでの作曲実践を通じて、作曲には感情を昇華させる力があることは明らかだ。また、作曲には、精神的な変容作用と治癒作用を認めることができる。

そうしたことを踏まえると、死を昇華させていくことも不可能ではないように思えてくる。

小雨は止むことを知らず、闇の世界の中でその存在感をさらに強めている。フローニンゲン:2019/2/10(日)19:55

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