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3806. アーネスト・ベッカーの書籍より:死と創造活動


時刻は午後の五時半を迎えた。辺りは薄暗くなっており、今は小雨が降っている。

今週もまた静かに終わりに向かい、明日からはまた新しい週がやってくる。日々が淡々と水のごとく流れていく。

今日は音楽理論に関する書籍を読むだけではなく、午後に突然、死を文化人類学的かつ社会学的に探究したアーネスト・ベッカーの書籍が読みたくなった。手元には、代表作のうち、"The Birth and Death of Meaning: An Interdisciplinary Perspective on the Problem of Man (1971)” “The Birth and Death of Meaning: An Interdisciplinary Perspective on the Problem of Man(1971)” “The Denial of Death(1973)”の三冊がある。それらを改めてもう一度読み返していこうと思った。

音楽理論の書籍を読み終え、作曲実践の最中にふと、ベッカーの書籍に手が伸びたのだが、その背後には、やはり私自身が人間存在と死、さらには創造活動と死の関係性について関心があるからだろう。それはもはや無意識的な関心ではなく、すでに言葉の形になっているように、意識的な関心となった。ここからは、この関心に沿って探究を進めていき、それらの主題について理解を深めていこうと思う。

ベッカーの書籍を少しばかり読み進めていると、この人生も死も、一度しかないという点において共通していることに改めて気づいた。そこからさらに、死と幸福について考えてみると、もしかすると不老不死というのは、人間にとっての最大の不幸であり、終わりがあることが人間にとっての最大の幸福なのかもしれないという考えが芽生えた。

何があっても死なないということ以上に地獄はあるだろうか。そうした状態は、まさに生き地獄だと言えるかもしれない。

欧州での三年目の生活において、死に対する関心がなぜだか高まっている。そうした関心は、作曲という創造活動への関心の高まりの後にやってきた。

今の私は、作曲と死の探究に幾分取り憑かれていると言えるかもしれない。これがどういった現象であり、何を背景にして生まれたものなのかについてはまた自分で考え、自分なりの説明と答えを見出していく。

今日も現時点ですでに三曲ほど曲を作った。もしかしたら、人間の創造力の源は、死の拒絶にあるのかもしれないという想念がよぎる。

私は毎日、ほぼ一定のペースで曲を生み出し続けているが、これは死の拒絶の表れなのだろうか。おそらくそうした側面は多分にあるだろう。

だが、そうだと割り切れない側面があることも確かだ。そして、それこそが芸術の本質であり、創造活動の最重要な点なのではないかと思う。

しかしながら、今の私にはそれが何かについて明確に語ることはできない。それを自分なりの言葉で説明できるようになった時、創造活動が死の拒絶によって引き起こされているものではなく、死を超越した形でなされる実践へと昇華されたとみなすことができるだろう。

もしかすると、今述べたように、創造活動の根底には、死と真に対峙し、死を昇華させ、それを超越していく力、ないしは意思があるのかもしれない。

今後、死の探究を続け、死と真に対峙することができるようになってくると、自分の創造力はいかように変容するのだろうか。そのようなことにも関心がある。フローニンゲン:2019/2/10(日)17:55

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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