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3804. ソナタ形式の曲:死という究極的な完成


静かな闇の世界が辺りに広がっている。あちらの世界もこのような静けさに包まれているのだろうかと想像する。

時刻は午前七時を迎えた。私はたいていの場合、特に何かを書こうと思って文章を書いているわけでは決してなく、書くことに自分を向かわせる何かがあると言える。

ただし、文章を書くという行為を衝動的に行っているかというとそうでもない。確かに、欧州で生活を始めた初年度においてはそのような衝動が強かったかもしれないが、今の私はそういうところにはいないようだ。

文章を書くことに対して、健全な距離が取れているように思う。文章を書くことによって、自己と自己を取り巻くリアリティが紐解かれていく感覚があり、何かが開かれていく感覚がある。

書くことの個人的な意義はそこにあると思うが、そうした意義とも適切な距離が保たれているように思う。そうした適切な距離を保ちながら、今日もまた日記を綴っていくことになるだろう。

鴨長明が『方丈記』を徒然なるままに綴った境地が少しばかり見えてきているかのようだ。これからも、曲としての日記のみならず、文章としての日記を綴っていくことになるだろう。

今日もまた、一日中シューベルトのピアノ曲を聴いていこうと思う。昨日読み始めた書籍に影響を受け、今後はピアノソナタの形式を用いて曲を作っていくことも良いかもしれないと思うようになった。

これまでは、とにかく詩のような短い曲を作ることを大切にしていたが、それに並行して、ソナタ形式の比較的長い曲を作っていくことも、一つ重要なことであるように思えてきた。

おそらく、ソナタ形式を採用した曲を作る過程の中で、様々な発見を得ることができるだろうし、ソナタ形式という独自性ゆえに、自分の作曲技術もまた新しく発達していく可能性がある。そうしたことを考えると、近々、ソナタ形式の楽章を毎日一つ作ってみることも試みてみたいと思う。

とはいえ、やはり私の主眼は、日々の内的感覚を詩のように短い曲として表現していくことにあるということを忘れてはならない。当面は、もう少しピアノソナタに関して学習を進め、どこかの時期を境目に、一つの楽章を毎日作っていく試みを始めたいと思う。

昨夜、シューベルトの曲を参考にして一つ曲を作ってみた。その前に、シューベルトの楽譜をパラパラと眺めていたところ、未完成の曲に目が止まった。

手持ちの楽譜には、シューベルトの未完の作品もいくつか収められており、私は偶然にも、一つの未完の作品に思わず目が止まった。“Unfinished”という言葉を見たときに、どこか自然と込み上げてくるものがあった。

私たちは誰しも、決して完成することのないものを完成させようとする中で人生を終えるのかもしれない。ひょっとすると、人生においては、何かを完成させる必要などないのではないかと思えてくる。

もしかすると、死というものが究極的な完成であって、それを迎えるまでは、何かを完成させるという気持ちというのは不必要なのかもしれない。

絶えず形を生み出し続けること。それを通じて生きていくことが、死という究極的な完成を成就するための要諦なのかもしれない。

シューベルトの未完の作品を眺めながら、そのようなことを考えさせられていた。フローニンゲン:2019/2/10(日)07:27

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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