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3685. 現代の地獄絵図:貧弱な人間観


つい今しがた夕食を摂り終えた。これから就寝までの時間を使って、本日を締めくくる活動に従事していく。

夕暮れ時に降り始めた霧雨が、今もまだ降っている。それを眺めれば眺めるほど、自分の感覚も霧雨のように微細になっていくかのようだ。

先ほど夕食を食べている最中に、改めて、ルドルフ・シュタイナーの人間観に打たれるものがあった。これは突然の気づきであった。

私がフローニンゲン大学にやってきて二年ほど従事していた発達研究は、複雑性科学を用いたものだった。確かにそこでは、「複雑性」という概念を用いて人間発達を探究していくため、人間を複雑な存在だと見なしている。

しかし、結局そこで共有されている人間観というのは、人間が本質的に持つ複雑性に全く及ばない、より厳密には、ごく一部の領域における複雑性しか扱っていないということに気づくことができる。

端的には、そこでは本来人間存在において最も重要だと言っても過言ではない霊性に関する議論が完全に抜けて落ちてしまっているのである。これは複雑性科学のみならず、人間を扱う他の科学領域にも等しく当てはまる事柄である。

そうした観点において、複雑性科学を用いた発達研究が、人間発達の複雑な側面を探究しているかと言えば、全くもってそうではない。今のところ、霊性の科学もほとんど発展しておらず、そうした状況下において、なお一層、シュタイナーが展開していた人間観に価値を見出せるのではないかと思う。

既存の科学的なものの見方は、人間存在を実に単純に扱っている。おそらく研究上、人間存在の局所的な部分に注目をしなければ研究ができないという事情があるのだろうが、それにしても、そこで共有されている人間観は極めて単純なものであり、お粗末なものである。

科学の領域おける人間観が極めて貧弱になればなるだけ、科学を盲信する現代人は、そうした貧弱な人間観を自身の内側に構築していく。こうした悪循環が現代社会に蔓延しているように思えてならない。

確かに、シュタイナーは霊性の科学を提唱しているが、彼の主張の大部分は科学的な枠組みから検証するのは極めて難しい。しかし、私がシュタイナーに敬意を表しているのは、人間が本質的にもつ霊性にまで踏み込みながら、決して貧弱な人間観を構築しなかったことである。

むしろシュタイナーは、実に豊かな人間観を構築しており、それには打たれるものがある。思うに、現代の科学で検証できないようなことを切り捨てるのではなく、むしろそうした側面を絶えず尊重していくことをしなければ、今後ますます人間観は貧弱なものとなり、それはすなわち、人間存在の危機につながってくるのではないかと危惧している。

人間を矮小化しようとする目には見えない大規模な運動が、この世界で着実に進行している。機械のような人間、家畜のような人間、魂の抜けた人間が溢れる現代社会を見れば、それを疑うものは誰もいないのではないだろうか。そして、これは現代における地獄絵図だろう。

しかし、最大の地獄絵図は、相も変わらず、単純な人間観を盲信し、水面下では人間の機会化・家畜化、および魂の略奪が起こっているにもかかわらず、人々がそれに気づけていないことだ。現代に描かれた地獄絵図に気づけないことが、この世界の最大の時刻絵図だ。フローニンゲン:2019/1/15(火)19:50

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