今日も気がつけば夕方を迎えた。誕生日である今日は日曜日に該当し、フローニンゲンの町はとても静かであった。
先ほど、不規則に落ちていく枯葉を眺めながら、時間がゆっくりと過ぎていくのを感じていた。いや、枯葉を眺めている時の自分は時間など感じていなかった。
昨年の誕生日から今日の誕生日にかけての時間も、本当に一年という時間がそこに横たわっていたのかと疑ってしまうほどに、自分の時間感覚が変容している。欧州での生活は三年目を迎え、まさか私はオランダのこの地で三回も誕生日を迎えるとは思っていなかった。
私の人生において、この地で三回ほど誕生日を刻んだという事実とその期間における経験が消えることはないだろう。
今日は午前中から夕方のこの時間帯にかけて、随分と読書を行った。キャサリン・エルギン教授とネルソン・グッドマンの共著の書籍、教育思想家のフローベルの書籍を読んでいた。
そうした読書に並行してふと、スイスの発達心理学者ジャン・ゲブサーについて調べ物をしていると、時間と意識の発達段階の関係性について指摘していたことを発見した。実はつい先日、協働者の方とオンラインミーティングを行っている際に、これと同じ話題が取り上げられていたことを思い出し、この偶然には驚いた。
ゲブサー曰く、厳密には意識の発達段階の高度化と時間及び空間に対する認識の間には密接な関係があるとのことである。ここで細かくは論じないが、例えば、ゲブサーの段階モデルで言うところの合理的な知性を司る意識段階においては、線形的な時間の流れ、かつ空間認識としては自己を箱に押し込むかのような特性があるとのことである。
その段階の一つ前に存在する神話的合理性段階においては、時間意識がサイクルをなしており——これは季節的な行事の信仰と関係しているだろう——、空間意識としては自己が文化的空間に閉じられた感覚があるという。
こうした記述を眺めていると、それらはおそらく実証的なものというよりも、推論的なものだと思うが、個人的な体験からは随分と納得がいく。各発達段階と時空間の認識の細かな対応についてはまだ深く考えていないが、大枠として、意識の発達段階と時空間の認識は密接なつながりがありそうだということを把握する。
この三年間、欧州で暮らす中で自らが少しずつ変容を遂げ、それに応じて新たな時空間認識が芽生えていることに気づいている。このテーマについては引き続き考えを深めていきたい。
今日はエルギン教授とグッドマンの書籍“Reconceptions in Philosophy and Other Arts and Sciences (1988)”からも得るものが非常に多かった。芸術鑑賞や芸術創造を通じてしか涵養しえない認識世界があることがわかり始めているが、とりわけ科学的な認識方法との差がどのようなものなのかについて、認識論の観点から丁寧に探究をしていく必要がありそうだ。
芸術によってしか開かれぬ認識世界があるというのは、芸術教育の価値を論じる際にも重要なポイントであり、自分の理解を深めていくためにも、明日からは以前に購入したグッドマンの“Languages of Art (1976)”と“Ways of Worldmaking (1978)”を読み進めていこうと思う。
芸術理解と芸術教育の観点から認識論を学んでいくことの喜びが日ごとに増していることは嬉しいことである。自分の関心テーマに引きつけて、認識論という哲学領域を開拓していきたいと改めて思う。フローニンゲン:2018/10/21(日)17:27
No.1358: The Elixir of Immortality
I encountered the situation in the dream last night that I drank the elixir of immortality.
What awaits us after we overcome the fear of death and immortality? Groningen, 07:29, Monday, 10/29/2018