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3248. 不可避な哲学


思慮深さが足りないということは昔からよく思っていたことだが、ここ最近もますますそのようなことを自分に対して感じる。とりわけ、人間発達に関する実務経験を積むたびに、人間存在に関する哲学的な理解が欠けていることに気づく。

哲学に価値を見出せず、それを無用のものとみなすのは、おそらく実務経験を深く積んでいないからなのではないかと思う。実務経験を真摯に積んでいけば、必ず哲学的な問いとぶつかるはずである。おそらく哲学探究は、そうした問いとぶつかってから真に始まるものなのかもしれない。

先ほどの日記で書き留めていたように、心の闇を治癒することを盲目的に良いことだと信奉しているセラピストがいたら、そのセラピストはおそらく真摯に実務経験を積んでいないのではないかと疑ってしまう。

その個人や社会にとって害を及ぼすようなシャドーが何かを考える際に、「悪」という概念に対する問いは避けて通れないだろうし、究極的には「よき人間とは」という問いに必ず行き着くと思うのだ。仮にそうした問いに行き着かないのであれば、そのセラピストは浅薄な対人支援しか行っていないのだと思う。

これはコーチやコンサルタント、そして教師なども含め、あらゆる対人支援を行う実践者に当てはまるだろう。いや、哲学的な問いに行き着くというのは、対人支援に携わるものだけではなく、全ての領域の実践者に当てはまることだと思う。

ここ最近は、芸術教育と教育哲学に関する探究に力を入れているが、そこでは必ず、「芸術の価値とは何か?」という問いにぶつかり、「よき教育とは何か?」という問いとぶつかる。まさに後者に関しては教育哲学が取り扱うテーマであり、前者に関してもそれは哲学的な問いだと言える。

今は哲学の領域を拡大させることを控えているが、人間発達や教育に関して探究や実務を行えば行うほどに、倫理哲学や道徳哲学に関わる問いを考えざるをえないのではないかと思わされることがよくある。

今日読書を進める中で発見したのは、カリキュラム理論は、知ることや知識の本質を探究する認識論と密接に関係しているということだった。人間発達や教育に関係する哲学領域を挙げればきりがないが、これから長い年月をかけて、自分の哲学的な探究領域も少しずつ変化していくことをすでに予感している。まだ探究の準備の過程にいるのだが、そうした予感がすでにある。

今日はこれから就寝一時間前までの時間を使って、今読み進めている教育哲学に関する書籍を読み進めていく。今から読む章は、民主主義と資本主義の観点から教育を捉えていくもののようだ。

政治学、そして経済学も教育や人間発達を考える上で必要不可欠な学問領域であることをここに記しておく。ありとあらゆることを深めていくことは不可能だが、ありとあらゆることを自分なりに深めていくことなら可能だろう。フローニンゲン:2018/10/10(水)20:13

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