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3168. 「子育て」と親の教育:健全な自己批判について


ここ最近、「子育て(parenting)」について色々と考えている。子育てほど難しいものはもしかしたらこの世にないかもしれないのだが、その方法について教えてくれる場がほとんどないのはなぜなのかを考えていた。

表面的な知識を得る場ならあるのかもしれないが、人間発達や学習の要諦を抑えた子育て教育の場がこの世界にほとんど見当たらないのは驚くに価する。霊性を涵養する方法や自らの資産を保護・形成していく方法を学ぶ場が少ないこと以上にそれは問題のように思える。

確かに今の私は、教育哲学を探究し、現代及びこれから求められる教育のあり方に積極的に関与していこうと思っている。しかし、学校教育の現場がいくら変わったとしても、それと同等に、あるいはそれ以上に重要な家庭の場における教育が現状のままでは全く意味がないのではないかと考え始めている。

子育ての難しさは、たとえ親が人間発達や学習プロセスについて少々知っていたとしても、様々な情が勝ってしまうことや、自己のシャドーの投影を含め、無意識的に子供の健全な発達を阻害してしまう事態が生じることにあるだろう。

そのように考えると、子供を持つ親が単に人間発達や学習に関する知識を表面的に知っているだけでは意味がなく、それらの本質を体験を通じて学び、それが実践に通じる次元にまで高めていかなければならない。その道のりはかなり険しそうだ。

今はそれを実現させるための方法を模索している。このところは本当に、子供の教育のあり方の変革と同時に、親への教育を社会規模でいかに充実させていくかがカギのように思えている。

昨日と同じように、先ほども入浴中に、自分が科学の道から哲学の道に方向転換したことについて考えていた。確かに今でも発達科学の研究の知見については関心を持ち続けているが、自ら科学的研究を行うことにはもはや関心はなく、哲学的な探究に強い関心を持っている。

今の私の関心は、科学的な研究の成果をいかに解釈し、それをどのように活用するかに関する思想的な枠組みを整備することにあると言えるかもしれない。こうした方向転換に至った背景には、健全な自己批判の精神が自分の内側に宿っていたことと関係があるように思える。

これまでは——特にこの二年間は——、科学的な枠組みを使って発達研究に邁進していたが、ある時ふと、そうした研究を行っている自分自身、さらには研究分野を取り巻く思想や、研究成果を参照する一般の人々のあり方に疑問を呈するようになった。

そうした疑問には科学は何も力を発揮してくれず、そうした疑問に自ら答えを見出していくためには哲学的な枠組みが必要だった。

発達には健全な自己批判が必要だと言われるが、まさに上記のプロセスは自己批判が自分に働いたことの一例だろう。今の私は、毎日救いを求めるかのように諸々の哲学書を読み進めている。

教育哲学に関しては、手に入る限り全ての書籍と論文を読みたいという強い思いが今日も湧き上がっていた。一人の人間の探究は発達と同様に一生涯に渡って進んでいくというのは、探究の過程で常に新たな課題とぶつかり、その課題を解決した先には新たな課題とまたぶつかるからなのだろう。

健全な自己批判を絶えず行いながら、常に新たな自己の課題と向き合い続けていくことは、今後の自分の人生の中からなくなりそうはない。フローニンゲン:2018/9/23(日)20:03

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