今日から気温が随分低くなり、秋の肌寒さを感じていたところ、冷たい夏の日をふと思い出した。今年の夏は確かに暑さを感じさせる日があったが、それは数えるほどであった。
ほとんどが冷たさを感じさせる日々であったように記憶している。そうした記憶に浸りながら、午前中の活動に取り掛かっていた。
早朝に、モーツァルトの変奏曲に範を求めて一曲作った。曲を作った後、いつものように自分の作った曲を聴きながら、瞑想的な意識の中で無心で絵を描いていた。
絵といっても色鉛筆を使って描く程度のものなのだが、絵を描くときの瞑想的な意識の状態は注目に価する。また、作曲の過程においても、確かに思考が優位なことが多いのだが、それでも瞑想的な意識状態で音を構築していくことがある。
旅の持つ意義の一つに、非日常的な意識を私たちにもたらすことが挙げられるが、作曲や絵画の制作もそうした非日常的な意識に誘う作用があることを改めて実感する。日々曲を作り、作った曲によって喚起される内的感覚を絵として表現していると、単に座して感得される瞑想意識とは幾分異なる意識状態が醸成されるようになってきている。
そしてそれは普段の生活の隅々に流れ込んでくるようになった。例えば、読書の最中においてもそうした意識状態に自分がいることが多くなっていることに気づく。
今朝方、ようやくヘレナ・ブラヴァツキーの主著“The Secret Doctrine: The Synthesis of Science, Religion, and Philosophy (2014)”の第一巻を読み終えた。本書は600ページ以上にわたる分量であり、隅から隅までを読んだのではなく、自分の関心事項に絞って読み進めた。
その最中に、自分の意識状態は瞑想的なものであったことに気づく。こうした瞑想的な意識状態で書物と向き合うと、通常の意識状態で得られる事柄とは別次元のものが得られるような気がする。
それは著者が本書に込めた実存的なエネルギーであったり、あるいは叡智と呼ばれるようなものである。それらが自分の内側に静かに流れ込んでくるかのような感覚があった。本来読書とは、こうした何らかのエネルギーや叡智の移転が伴うものなのではないかと思う。
ブラヴァツキーの書籍を読んだ後にとりかかっていたのは、ミシェル・フーコーの処女作“Madness & Civilization: A History of Insanity in the Age of Reason (1965)”である。これは本当に洞察に溢れる書籍だ。
今回が初読であるから細部に入り込んで読み進めていたわけではないのだが、フーコーが採用した歴史的アプローチは、自分が博士論文を書く際のヒントになると思った。確かにフーコーが引用する歴史上の事柄は、歴史家から見れば事実として不確かなものがあるらしいのだが、フーコーは歴史における事実としての正しさに着目していたわけではなく、歴史上の出来事に内包される考え方に着目をしていた。
仮に私が芸術教育の意義に関する論文を執筆する際には、同様のアプローチを取るかもしれない。歴史の細部に入り込むのではなく、歴史上の出来事を取り巻く背景の思想に着目し、そこから現在における芸術教育のあり方を考察していくような内容にしたい。
午後からは引き続き、フーコーの書籍を読み進めていく。フローニンゲン:2018/9/22(土)13:22