九月に入ってまだ間もないが、本当に朝が冷え込み始めた。起床してすぐに入れた温かいお茶を飲みながら、今この日記を書いている。
また、つい先ほど今日一日分のコーヒーを作り始め、コーヒーメーカーが一生懸命に仕事をしている。一日に飲むコーヒーの量を減らし、午前と午後に一杯ずつコーヒーを飲むことが習慣になった。この新たな習慣がもたらす効果についてはまだよくわからない。
起床時に見えていた雲とは少しばかり種類の違う雲が上空に見える。今は少し晴れ間が顔を覗かせており、一日中曇りだという予報は少し外れるかもしれない。
日曜日が静かに始まり、静かに流れていく。私が現在住んでいる場所の周りは本当に静かだ。
確かに住宅地の一角に住んでいることは確かだが、近隣住民がとても静かに生活を営んでいる。この静けさは、秋の深まり、そして冬の到来と共により深まっていくように思える。
先ほど日記について書き留めていたが、日記の執筆には他の実践とは少しばかり異なる要素がやはり存在しているようだ。自分が行っている他の実践を取り上げてみると、例えばヨガや瞑想実践などがあり、それらは変化を生み出すことを意図的・非意図的な目的に掲げながらなされる。
ヨガや瞑想においては心身を整えることが意図的・非意図的な目的として掲げられていると言えるだろう。その他の実践について挙げればきりがないが、こうした実践は変化を生み出すことを目的になされているように思えてくる。
一方で、日記を執筆するというのは変化を生み出すために行われるという側面のみならず、変化そのものに気づいていくという要素が色濃く存在している。先ほどの日記の話で言えば、まさに振り返りの要素が強いのが日記の執筆だろう。
確かに、ヨガや瞑想をしながら振り返りをすることも可能だが、それはそれらの実践が本来目指すことではないだろう。気づきの瞑想ですら、自分の内側に起こっていることに意識を当てることはするが、変化を生み出す根源にまで立ち返って変化そのものを捉えていくことは目的にされないはずである。
そうしたことを考えてみると、日記の執筆というのはますますユニークな実践だということが見えてくる。それは変化の根源にまで立ち返って変化そのものに気づかせてくれるものでありながら、同時に新たな変化を生み出すものでもある。
日々の小さな変化をないがしろにせず、それらに認識の光を与え、変化そのものを育んでいくということを行っていきたい。その実現に向けて、今日も普段と変わりなく、日々の様々な出来事を通じて考えたこと、感じたことを日記に書き綴っていくことになるだろう。
今、朝日が顔を覗かせ始めた。光がフローニンゲンの街に降り注いでいる。フローニンゲン:2018/9/9(日)08:12
An Autumn Geometric Pattern
Once autumn came, I noticed that geometric patterns occurring inside my psyche dynamically varied.
That may be because a function in the interior and exterior reality to generate patterns is interdependent. Groningen, 18:06, Wednesday, 10/10/2018