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2944. 他者と時代と共に作る曲


先ほど近所のスーパーに買い物に出かけ、今は昼食を摂り終えて一息ついている。近所のスーパーに向かう道中はとても爽やかであり、青空の下、清々しい光景が広がっていた。特に、スーパーに到着する前に渡る運河をかける橋からの情景は夏らしい輝きがあった。

運河の上に停泊する船と運河の上を進んで行くボートの情景を覚えている。また、運河の水面のなんとも言えない輝きも印象的である。

買い物からの帰り道も、私は自宅に戻るまでの景色を楽しんでいた。青空を見上げると、そこには白く浮かぶ三日月が見えた。

今日の午前中は涼しいというよりも肌寒かった。早朝の風は冷たく、しかしそこに甘美さがあった。風にも味があるということ。そしてそれはその土地によって異なるということを感じていた。

今日はこれからハイドンに範を求めて作曲実践を行う。ハイドンの存在が自分にどんどんと近づいてきていることを実感する。

今はもっぱらハイドンのピアノ小作品に範を求めている。ピアノソナタを参考にするのはもっと先のことになるだろう。

昼食を食べながら考えていたが、やはり私は創造することに大きな喜びを見出しているようだ。いやより正確には、創造を通じて自己を深め、深められた自己によってこの世界に関与する役割を担っているよう感覚があり、それが自分を創造活動へと導いているようだ。

創造活動そのもの、そして創造活動を通じたこの世界への関与こそが自分に与えられた使命であることを最近よく思う。“learning by creating”という言葉について考える。

私たちの学びの本質には創造行為があるはずだ。逆に言えば、教育においては創造行為に従事することの支援を欠いてはならない。

果たして現代の教育は私たちの創造活動の支援に寄与しているだろうか。現代に普及する子供の教育にせよ、大人の教育にせよ、創造活動への支援という発想が欠如しているように思えるのは私だけだろうか。

これまでの日記で書き留めているように、創造活動というのは何も芸術的な活動だけを指すのではない。自分の内側にある思考や感覚を外側に形として表現する行為の全てを指す。

それを抑圧するような力が教育の世界に働いているように思う。成人を見渡してみた時に、ほとんどの人が創造の喜びを忘却してしまっていることからそれは明らかだ。また持続的な発達というものが実現されていないのも、創造行為の抑圧が関与しているだろう。

人は創りながら学び、創りながら自己を深めていく。それをもう一度確認しておきたい。

これからハイドンの曲を参考にするにあたり、先ほど考えていたのは、過去の偉大な作曲家の仕事を参考にする過程の中で、絶えず自分固有の表現思想と表現技法が育まれていくということだった。

過去の作曲家の作品を単に毎日参考にしているのではなく、それは常に自分固有の思想と技法を育むために行われているのだ。ここにも、他者の存在がいかに尊いことかを見て取ることができる。

正直なところ、私は過去の作曲家がいなければ、そして彼らが作品を残してくれなければ、作曲など全くできなかっただろう。創造というのは人から人に継承されていくという性質が見えてくる。

確かに、私は毎日一人で曲を作っているが、それは決して一人で成し遂げられるものではないのである。過去の作曲家がいたからこそ日々の自分の作曲が成り立っている。

私は一人で曲を作っているのではなく、常に他者と共に曲を作っているのである。そこには過去の作曲家が含まれているだけではなく、同時代の多くの人々も含まれている。

私は他者と共に、そして時代と共に日々曲を作っているようなのだ。フローニンゲン:2018/8/6(月)13:26 

No.1208: Forlorn Morning

The atmosphere of this morning is somewhat forlorn. Groningen, 09:31, Tuesday, 9/11/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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