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2814. 創造性の源と霊性


時刻は午後の七時半を迎えようとしている。結局今日は一日中曇り空であった。今もまだ灰色の雲が空全体を覆っている。

午後には小雨が降り始めた。明日は早朝から午前中にかけて雨が降るようだ。

今日はテレマンの曲を参考に二曲作り、モーツァルトの曲を参考に一曲作った。結局、バッハの曲に範を求めることはなかった。

テレマンとモーツァルトの曲に範を求めながら、現代社会においてあのような巨人と呼べるような作曲家がほとんどいないことに考えを巡らせていた。私が知らないだけなのかもしれないが、あれだけ多産な作曲家が現代に存在していないのは何故なのだろうかと考える。

作曲理論に関する知識の集積は当時よりを遥かに豊かであり、コンピューターの発展によって作曲をするための道具についても極めて便利になった。そうした事情にもかかわらず、作曲において巨人と呼べるような人が現代社会にほとんどいないように思えるのはなぜなのだろうか。

何が表現者の多産性を奪っているのだろうか。これは言い換えれば、現代の何が表現者の創造力を奪っているのだろうかという問いになるだろう。この問題については真剣に考えなければならない。

これは自分にとって極めて重要な問題だ。この社会の何かが私たちの創造性を蝕んでいるのだ。芸術教育や霊性教育を考える際に、この点は避けて通れない論点となるだろう。

今日はこれから就寝にかけてマラルメの詩集を読み進めていこうと思う。今日はすでに三曲ほど曲を作ったので、これ以上作曲実践に時間を充てることは賢明ではないだろう。

以前の日記で書き留めていたように、ある一定量以上作曲実践をすると曲を作る集中力が途切れてしまう。もしくは、新たなものを創造する力が弱まってしまうのを感じる。

この点において、私はまだ作曲に関しては創造の泉につながっていないことがわかる。たった三曲ほど作っただけで集中力や創造力が枯渇しそうになるというのは問題だ。

これから作曲技術を高め、音楽的な感性を育み、さらには内面そのものを成熟させていくことによって創造の泉につながっていくことができるだろう。今、創造の泉につながる道について述べたが、もしかすると一番重要なのは自らの霊性の涵養なのかもしれない。

シュタイナーが述べているように、音楽が生まれる源と霊性は密接に関係している。全ての創造を司る源泉とつながるためには己の霊性を涵養していく必要がある。霊性を涵養する手段と方策についてこれからより一層考えていく。

マラルメの詩集を読むことは、ひょっとすると、いや必ずや、自分の霊性を豊かなものにしてくれることにつながるだろう。今日中に全ての詩を読むことはできないであろうから、明日や明後日にわたってマラルメの詩集を読み進めていきたい。

マラルメの詩集を読み終えたら、ルーミーの詩集を読み始め、それを読み終えたら、昨日届いたリルケの詩集を読んでいく。フローニンゲン:2018/7/9(月)19:40

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