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2662. 芸術教育の探究に向けて


太陽の光が少しずつ弱くなり始めた午後七時半。これから完全に日が沈むまでにはあと二時間半ほどある。

たった今夕食を摂り終えた。夕食を摂っている最中に、今の自分の関心が芸術教育に向かっていることの意味について少しばかり考えていた。

皮肉なことに、思い起こしてみると、当事者としての自分、つまり義務教育時代の私は芸術教育というものをないがしろにしていたことを思い出す。当時の私にとって、なぜ美術や音楽の授業があるのかが理解できなかった。

いやこれについてはもう少し説明をしなければならない。義務教育時代に受けていた美術や音楽の授業そのものは私にとって楽しいものだった。

粘土をこねたり、絵を描いたり、はたまたリコーダーを吹いたり、歌を歌ったり。それらのアクティビティそのものは実に良い思い出として記憶に残っている。

しかしながら、なぜそれらの科目に暗記を強いるような筆記試験があったのかが解せなかったことを思い出す。美術や音楽の授業そのものは良き思い出として残っており、実際にそれらの授業を通じてなされたアクティビティは今の私に少なからぬ影響を与えているように思う。

だが、今でも私が不満に思うのは、本来感性や人格を育むことを主たる目的とするそれらの科目でも暗記を強いるような試験があったことだ。「このヒマワリの絵の作者は誰か?ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」「この写真の作曲家は誰か?ベートーヴェン」こんなことを覚えるために芸術教育は存在しているのだろうか?今の私の最大の関心は、おそらく現在もこのような形でなされている日本の芸術教育にある。

ここ数日間考えていたのは、来年以降にどこに住み、何をしているのかということについてである。私はどうしても芸術教育についてより理解を深めたい。

芸術教育の先端的な研究や芸術教育の手法について、そして芸術理論や芸術教育に関する思想を学びたい。しかもそれは厳密かつ激しく学びたい。

そうしたことからも、今私は再びどこかの大学で芸術教育について学びを深めようと考えている。今回は科学者としてそのテーマについて探究をしない。

実務家として、かつ思想家としての立ち位置で探究をしていく。そうなってくると、科学研究に力を入れる大学院ではなく、実践に重点を置く大学院が候補になるだろう。

今日も少しばかりその候補を調べていた。まだ確実に断言はできないが、芸術教育というのは博士課程で研究をしてもいいと思えるようなテーマからもしれない。

なぜなら、今の私にはその領域に関する知識はほとんどないのと同時に、激しい探究意欲があるからだ。ゼロから一つの領域を深く開拓していくことも不可能ではない。それはこれまでの自分が常にやってきたことだ。

まずは博士課程に入るか否かは脇に置き、実践と理論の双方を重んじる大学院に入学することに向けた準備をしていきたい。また、博士課程も視野に入れて、今年の一年は特に独学を進めていこうと思う。

まずは過去現在においてどのような学者が芸術教育について研究しているのかを調査してみることから始める。最初から調査の範囲を狭めることをせず、芸術教育について言及している全ての学者を対象にする。

兎にも角にも芸術教育という領域の土地勘をまずは養っていく必要がある。その後、芸術教育の意義、芸術教育の思想と実践方法などについて掘り下げていくような探究をしていきたい。

新たな探究項目が少しずつ明確になり、それがまた日々の生きがいにつながっていく。フローニンゲン:2018/6/6(水)19:48 

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