top of page

2549. 文章の生命力


雲の大移動が行われている。ほんのつい先ほどまでは全く雲のない青空が目の前に広がっていたが、今はまたしても大きな雲の塊が空に浮かんでいる。

それはゆっくりと東の空に向かって行進をしている。今日はどうやら雲の移動日のようだ。

昨日も日記を書きながら、この日記は日々の思考や内的感覚をもとに内外世界をさらに探求していくためのものであるという性質上、字数について意識することをせず、湧き上がってくるものが望ましい形に落ち着くまで文章を書いていく方が良いと改めて思った。

自分が考えたことや感じたことを自らの言葉の及ぶ範囲で捉え、言語化できる限りのことを書き留めていく。言葉を待っている対象にあるべき量の言葉を与え、対象が必然的な形で外側に出てきたらそこで文章は完結である。

それ以上先に進むことも、その手前で終わることもしない。あるべき場所でしかるべき形で完結させること。

実際には、こちらの意思で完結させるというよりも、対象が自然とそこに向かっていくことを見守ることが大切だ。文章の書き始めには、おそらく完結点のようなものが既に存在しており、記述対象はそこに向かって進んで行く。

その進行は紆余曲折があったとしても、進行が起こる瞬間には既にそうした帰結点が生まれているように思えて仕方ない。私にできることは、帰結点まで進んで行く文章を見守ることであり、ひとたび帰結点に文章が到達したら、そこで筆を置くということである。

それ以上先に進もうとすることは、帰結点を人工的に破壊することであり、その途端に文章から一つの力が消える。それは一つの文章を文章たらしめている全体を構成する力、いわば文章に緊密感を持たせるような力だと言っていいかもしれない。

言い換えると、こうした力は即文章の生命力であると述べてもいいだろう。文章が持つ生命力の正体がまた少し見えてきた。

それはまさに、こうした帰結点へ向かう力そのものなのだ。厳密には、文章の生命力とは、出発地点と同時に帰結点を生み出す力であり、文章を出発地点から帰結点へと運んで行く力だと言えるかもしれない。

これまでの私は、文章の生命力を改変するようなことを無意識的、あるいは時に意識的に行っていたように思う。そうしたことを金輪際やめなければならない。

とにかく思考や内的感覚をあるべき形であるべき場所まで運ぶこと。それだけを意識して日記を書き続けていこうと思う。

昨日、久しぶりにベートーヴェンのピアノソナタを聴いていた。自分の内側に共鳴するような幾つもの素晴らしい曲がある一方で、どうも今の私はバッハの楽曲をより好む傾向にあるようだ。

どうやら今の自分の内側の感覚とバッハの音楽世界の質感が合致しているようなのだ。今日はまたバッハの曲だけを聴いていこうと思う。

バッハの曲を聴きながら、本日まず取り組むことは、デスクトップ上に保存している幾つかの論文を読んでいくことである。以前ダウンロードした論文が随分とデスクトップ上に溜まってしまっており、その整理も兼ねて今日はまずそれらを少し読み進めたいと思う。

論文をしばらく読み進めたら、今度は過去の日記の編集を行う。一日に多くて20本の編集に留め、編集作業も小さく着実に進めていく。

昼食前にランニングに出かけ、昼食後に作曲実践を行ってから、論文の執筆に取り掛かりたいと思う。今日から三日間は集中して午後の時間帯に論文を書き進めていきたい。

既に書かれた論文の手直しを中心に、肉付けするべき箇所の文章をより厚くしていく。三日間論文の執筆に取り掛かれば、もう九割型は論文が完成したと言ってもいいかもしれない。フローニンゲン:2018/5/11(金)07:10

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page