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2536. 表現技術の涵養に向けて


昨日とほぼ全く同じ時間に日記を書いているような気がする。そして、昨日と変わらない夕陽の眩しさを感じているような気がする。

時刻は夕方の七時半を迎えた。昨日に引き続き、今日も気温が高く、昼前に近所のスーパーに行く時には半袖で十分であった。

明日もまた気温は高いままであり、明後日から少しばかり気温が下がる。そんな天気となるようだ。

夕方のこの時間に吹くそよ風を書斎の窓から眺めている。ただ風を眺めているだけなのだが、それだけで心が落ち着いてくる。

そよ風によって揺られる木々の葉が、自分の心の波と同調しているかのようだ。内外世界のシンクロナイゼーションをここに感じる。

先ほど夕食を摂りながら、「自分には表現したいことが溢れるように自分の内側に存在しているが、それを表現するための技術が全く追いついていない」ということを心の中でつぶやいていた。表現内容はあるが、技術的なところで課題を抱えているということは、幸か不幸か全くもって正しいと思う。

とりわけ作曲に関する技術をどのように高めていったらいいのかに苦心する日々が続く。誰かに師事することなく、今は作曲の理論書も書斎の机の片隅に置かれているような状態である。

では一体何から作曲の技術を学んでいるかというと、過去の楽譜だけを頼りにしている。過去の偉大な作曲家が残した楽譜だけが今の自分の師となっている。

正式に師についていないことが望ましいことなのか、望ましくないことなのかはわからない。今の自分は誰か師につくような環境にあるわけでもなく、師事したいと思うような作曲家もいない。そうしたことから必然的に過去の作曲家が残した作品だけが自分の師となっている。

先月、ブダペストのバルトーク博物館を訪れ、そこでバルトークに関連する書籍を購入し、それを眺めた時、「作曲は教えるものではない」というバルトークの言葉があったことを思い出す。当然ながら、理論的な部分や技術的な部分の多くは教授することが本来可能だと思う。

だが、バルトークが言わんとしていたことは、技術を超えた部分、すなわち作曲技術の本質とも言えるその個人の固有の思想を固有の形で外側に表現する方法については誰からも教わることができず、むしろそれは自ら形成していくものだ、ということなのではないかと思う。

そうであれば、今自分が歩んでいる道もあながち間違ったものではないように思える。一見するとそれはかなりの遠回りのように見えるが、それでも正しい道を歩んでいるように思えてくる。

書物を通じて学べることは学べるだけ学び、自分の内側で自ら育んでいくしかない自分なりの作曲方法については本当に自分の手で開発していくしかない。今日もこれから本日二度目の作曲実践を行う。

とにかく過去の作曲家が残した優れた作品を師とし、自分の内側で表現を待つものをあるべき形で表現できるような技術を獲得していこうと思う。

最後に、夕食前に考えていたことをメモ書きとして残しておきたい。ふと、短調と長調の見分け方の方法を自分の中でより明確に確立したいと思った。

具体的には、各調を見分ける、厳密には見るのではなく聴き分けるにはどうすればいいのかを考えていた。より端的には、各調の固有の色や形をよりはっきりと認識したいのである。

各調に固有の質感を把握するためには、やはりその調の音を意識的に聴くしかないのだろうか?この点についてはその方法を模索したい。

今のところ、作曲をする際には常にどの調を用いているのかを作曲ノートにメモし、その曲を聴きながら内的感覚をデッサンしている。各調と自分の描いたデッサンを比較してみるというのも一つ面白い方法かもしれない。これからは今まで以上に、各調が持つ固有の音色について意識したいと思う。フローニンゲン:2018/5/8(火)19:47

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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