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2526. 羽のような日曜日


今日はどこか優しい羽のような一日であった。まだ今日という日を締めくくるには早いが、早朝から夕方の今の時間帯までそのような感覚を感じている。

「羽のような一日」それは決して翼のような一日ではなく、もっと柔らかく優しげな綿のような一日だったということだ。時間的に空間的にもそうだったとしか言いようがない。

時刻は夕方の六時に近づいてきている。この時期のフローニンゲンにおいて、この時間帯はまだまだ正午のような雰囲気を持っている。

先ほど久しぶりに知人たちの文章を読んで、あれこれと色々なことを考えていた。あるいは、私に何かを考えさせてくれたと言ってもいい。

それらは未だ明確な言葉にならず、自分の身体や存在空間の中で原型として浮かんでいる。この「名づけを超えた絶対的な直接体験」について、先日の中欧旅行の際にも考えさせられていた。

私たちは日々、無数の絶対的な直接体験をしている。だが、その体験の本質にまで私たちが立ち返ることはなく、いつもそこでなされるのは体験の名付けに留まるか、体験そのものを見過ごすかである。

言葉にならないような体験を日々積み重ねていく中で、私はできるだけその直接的な体験の中に留まりたいと思う。そこには当然ながら名付けに対する衝動が生じたり、体験そのものを見過ごしてしまうような軽薄な傾向が見え隠れする。

この絶対的な直接体験の中に、自分の固有性や人間として生きることの意味があるのではないか。そのようなことを思うようになった。

五時半に起床してから夕方の六時を迎えるにあたって、私は今日もまた、一日が確かにあったのだということに強く驚かされる。昨日と同様に、今日もできる限りの創造活動に従事していた。

今は修練の時であり、自分の中で今見えている結界を越えていくための準備の時期だ。創造に明け暮れる日々。

日が明け、そして暮れるのと同様に、永遠に営まれていく創造活動への没入。それが実現することを強く望む。

そして、その実現に向けて毎日少しずつ進んでいくことを自らに改めて言い聞かせる。毎日毎日このようなことをしているように思う。

何度繰り返してもいい。それが実現されるまで繰り返し自分に言い聞かせ、繰り返し実践に明け暮れた日々を歩んでいくことが何よりも大切だ。

なぜなら、差異は反復に宿るのだから。差異を生む反復が生まれてくる根源に触れながら生きること。おそらくそれが大切なのだろう。

今見えているもの、感じられるもの、聞こえるもののさらに奥深くにあるものを捉えるようにすること。現在の知覚を超えた知覚世界を把握しようと絶えず努めること。

内外の世界はいつも私を超えているが、その差分に気づき、自らをそこに引き上げていく試みに着手すること。そうしたことを忘れてはならない。

日曜日もこれから夜に向かっていく。ここからしばらくは、協働プロジェクトに関するレポートを作成していく。

この時間帯までその着手を引き延ばにしてしまったが、ここから集中して取り掛かる。もう一度今に集中したいと強く思う。今の中に常に自己の本質があるのだから。フローニンゲン:2018/5/6(日)18:01

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