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2507. デッサンと作曲実践に潜む興味深い共通点・相違点


起床直後、いつもと同じく身体を少し活性化させた。その後に、一日分のお茶を作った。

お茶を入れて、今日の一杯目を飲みながら、まずはデッサンを行った。昨日近所の文房具屋で色鉛筆を購入したことにより、デッサンがより充実した実践になり始めているのを実感する。

購入した色鉛筆の描き心地は申し分なく、デッサンをする喜びをさらに高めてくれている。デッサンを行っている最中は、作曲の最中と感覚が似ている。

どちらも没頭状態にあり、意識状態が特殊なものになる。脳波で言えば、おそらくは最初はリラック状態のアルファ波が発せられており、そこからさらに深い意識状態に参入した時に見られるデルタ波のようなものが発せられているかもしれない。

いずれにせよ、デッサンも作曲も特殊な意識状態を誘引するようだ。意識の状態を日々の生活の中で変えていくことは、私にとって非常に意味のあることである。

意識そのものに変動性を加え、意識の状態を質的に異なるものにしていく実践は、自己を健全に保つ働きと、自己の涵養につながっている。もしかすると、こうしたことの中に創造活動の意義、とりわけ芸術的創造の意義があるのかもしれない。

デッサンと作曲についての共通事項について考えを巡らせていると、確かに両者には上記のような共通点がある。一方で、少しばかり異なる点があることも確かだ。

二つの実践領域が異なるものであるため、異なる感覚を引き起こすというのは当然に考えられることだ。私の中では、デッサンを行っている最中はほとんど認知的な思考というものが介入せず、色の選択から形の具現化まで無意識的になされることが多い。

いったい自分は何に身を委ねているのかわからないが、自己の存在が何か大きな空間の中にくつろぎ、その中で自分の思考や認知的な判断などをほとんど下すことなくデッサンがなされていく。

そうした様子を後ほど振り返ることも様々な気づきがもたらされるが、そうした状態から通常の状態に戻ってくると、どこか自分の中で小さなシフトが起こったような感覚になる。自己を無限の創造空間に委ね、その中にくつろぐ。

くつろぎの中で、内側から湧き上がってくるものを無心に形にしていく。そのようなことがデッサンの中で生じており、起床直後に行ったデッサンにおいてもそのようなことが見られた。

一方、作曲実践はデッサンのように無限の創造空間に自己を委ね、そこにくつろいで作曲を行うこともあるが、それは今の私には稀な現象である。どちらかというと作曲は、思考を働かせることと感覚を働かされることが半々のようである。

思考と感覚のどちらもが程よく発揮されており、その調和の中で曲を生み出していくのが今の自分の作曲実践において見られる現象である。昨日の作曲実践を振り返ってみても、曲の中に規則性を生み出すことは、思考と感覚の両方を発揮させなければ成し遂げることができなかった。

比喩的に言えば、音のパズルを自らで作り出し、そのパズルを思考と感覚をもってして自ら解くような実践が今の自分の作曲プロセスの中に見られる。音のパズルの最初のピースは紛れもなく感覚的・直感的に生み出される。

一つ目のピースが生み出されて以降は、思考と感覚が調和し、そうした調和状態の中でパズルの続きが生み出され、それが次々に解決に向かっていく。作曲とデッサンという創造行為がもたらすものの違い、そして創造プロセスの違いについては本当に興味深く思う。

これらの点については実践を通じて観察と考察を深めていきたい。いつか自分の中でのデッサンの意味を曲として表現し、作曲の意味をデッサンとして表現したいと思う。

そうした日の実現に向けて、今日も実践を通じた観察と考察、そして技術の修練に励みたいと思う。フローニンゲン:2018/5/3(木)07:16

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