一日が過ぎていくというのはこれほど早いものであったろうか。そのようなことを思わずにはいられないほどに、時の流れが極めて早く知覚される。
私が毎日日記を執筆したり、日記のように曲を作っているのはもしかすると、時の激流に押し流されないようにするためなのかもしれない。存在を時の流れの中に定位させ、時と共に一日一日を確かに歩んでいこうとする意思ゆえに、私はこうも毎日日記や曲を作ることに邁進しているのかもしれない。
本当に、そのような形で一日を過ごさなければ、この時の流れに流されてしまいそうなのだ。それは自己を流れに委ねるという形ではなく、自己が流れの最果てにあてもなく流れ去ってしまうかのようなのだ。
日々を生きるということが、日々の時の流れに一歩を刻むことであるならば、日記を書くことと曲を作ることは、時の流れの中に存在の杭を打つことになる。その一つ一つの杭が、生きた証になるのではないだろうか。 今私が住んでいるオランダの家からは、毎朝小鳥の鳴き声が聞こえてくる。今朝もそうだった。
小鳥たちの鳴き声に耳を傾けていると、どこか瞑想的な意識に誘われるから不思議である。もしかすると、鳥は仏陀の化身、あるいは仏陀そのものであり、その鳴き声によって私たちが目覚める時、私たちも仏陀になると言えるのではないだろうか。
小鳥の小さな鳴き声は、自らの仏性に目覚めさせるきっかけを与えてくれるかのようだ。夕暮れが迫ったこの瞬間にも、耳を澄ませてみると小鳥の鳴き声が聞こえる。
書斎の中に響き渡るシューベルトの曲と相まって、それは内側の仏性を目覚めさせる覚醒の音楽となる。 早朝に作曲実践を行っている最中、現在を進む私たちの足取りについて思いを寄せている自分がいた。私たちの自己は絶えず揺れながらにして進んで行く。
自己の存在が深まるためには、絶え間ない揺らぎが必要である。この話題もまた、これまで折を見て何度もこの日記に書き留めているように思う。
私たちが絶え間ない揺れの中を毅然として進んで行くためには、二つの方法があるかもしれない。一つは音楽の対位法のように、揺れとは逆向きに一歩を踏み出していくことである。
そしてもう一方は、耐震強度の高い建物のように、揺れと同方向に揺れながらにして進んで行くということである。揺れと逆向きに進み続けることは過酷であり、揺れと同方向に進み続けることもまた別の意味で過酷だろう。
すると、絶え間ない揺れの中にはこれら二つの方法を超えて、中庸的な歩み方があるのかもしれない。それはどのように見つけることができるだろうか。
おそらくそれは、絶え間ない揺れの中を自らが自覚的に一歩一歩進んでいくことを通じて見出されるだろう。
日々の自覚的な歩み。それこそが、絶え間ない揺れを包摂した形でこの生を生きることを可能にしてくれるはずなのだ。フローニンゲン:2018/1/14(日)16:16
No.644: Composing Music Based on the Same Motif
It might be interesting to compose music for the same motif again and again, for instance, a joy for life, the beautiful sky, etc.
I’m curious about how my music develops for the same subject. Composing music again and again based on the same motif would reveal not only a developmental process of composition skills but also the development of the subject itself. Groningen, 06:20, Sunday, 1/14/2018