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1956. 観念と美的経験


美学に関する専門的な知識があるわけでも、専門的な知的鍛錬を積んできたわけではないが、このところ美についてよく考えている。とりわけ、美の価値、美的経験の発達、美の永遠性などが主題として立ち現れている。

今道先生の書籍を読みながら、美的経験というものを単に感覚的に捉えるだけでは道半ばであることを再認識させられた。確かに、美的経験というものは感覚を通じて湧き上がってくるものなのだが、それを感覚のなすままにしておいてはならない。

美的経験を感覚を通じて把捉するのと同時に、観念的に美的経験を捉え直すことが必要になる。その過程を経て初めて、観念を超えて、再び感覚的、あるいは直感的な美的把握が可能になるのだと思う。

まさにこれは美的経験の発達過程に他ならず、感覚だけを頼りにする人は、観念的把握を通じて初めて到達される直感的な美的把握と自分の感覚的な把握方法とを混同してしまいがちである。これは発達論的には、「前超の虚偽」と呼ばれる現象だ。

また、観念だけを頼りに美的経験を把握しようとする人は、自らが感覚的に美的経験を把握していた以前の段階のことを忘れ、前の段階を蔑ろにするという過ちを犯しやすい。さらには、その後に待っている段階が再び直感的な美的把握を可能にするものであることを考えると、観念だけに依存して美的経験を把握しようとすることには問題がある。

ここで一つ、どうして観念的把握から再び感覚的な把握へ移っていくのかを考えていた。もちろん様々な理由が考えられ、例えば、そもそも美的経験というものは言語超越的なものだからだ、というものが挙げられるかもしれない。

それは確かにそうなのだが、そもそもなぜ観念的把握を経て次の美的把握方法に移行していくのかを考えていたのである。ここにはおそらく、観念と美の関係性があるのではないかと思う。

観念の持つ力。観念は物質的なものを超え、私たちに想起という特殊な行為を可能にさせる。

観念による想起は、形のないものを捉えることを可能にし、捉えられた対象は観念の世界で永遠性を獲得しうる。つまり、観念化を究極的に進めていくと、観念が内在的に持つ力、すなわち対象を永遠なるものに変える力が顕現するのである。

ここに観念と美の接点があるように思える。美的経験の奥底には、それを美だと言わしめる人類に普遍的な経験の層が存在しており、それは永遠への道と言っていいかもしれない。

観念はまさに、永遠への道を真に永遠なものへと変容させていく力を持っているのだ。 窓の外を眺めると、山際が薄オレンジ色に照らされ始めた。もう間も無く初日の出が現れる。それは美の現れであり、この世の至る所に遍満する美の化身の一つである。山口県光市:2018/1/1(月)07:05

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