朝日がすっかりと天空に昇り、今は平穏な瀬戸内海の上に光を照らしている。朝の陽光は心を奪われる美しさを持っており、自分が光と海と一体化してしまいそうな感覚になる。
光り輝く穏やかな瀬戸内海を眺めていると、先ほど自分を襲った感覚について思い出した。私は、自分の人生という織物を編んでいるだけではなく、この世界に存在する他者と共に一つの大きな織物を編んでいることにはたと気づかされたのである。
それと似た様な感覚として、私は自らの固有の物語を紡ぎ出しているのみならず、他者と共に共通の大きな物語を紡ぎ出しているのだ、という感覚に陥った。それは瀬戸内海のような気づきであり、今目に映っている優しい太陽の光のような気づきだった。 日本を離れて生活をすればするほどに、自分が自分から遠くなっていき、自己の極地に還る感覚が強まってくる。異国での生活の節目節目に日本に一時帰国する際は、いつも超常的な体験をする。
日本に一時帰国する前後の自分を観察していると、時にそれが何らかの精神病の一種なのではないかと思うことがあった。例えば、観察的な自己が強く現れ、自己が自分の心や身体から離れるという感覚であったり、心眼や心耳による幻覚や幻聴の把捉なのである。
私は精神療法の専門家ではないため、独りよがりの診断はできないが、そうした症状に類する精神病について調べてみると、どうも自分はそうした精神病には該当しないように思うのだ。表面的には両者は瓜二つなのだが、症状を生み出す深層的な根源が異なる、と言ったらいいだろうか。
例えば離人症において見られる現象は、観察的な自己が立ち現れることによる現実遊離だが、私の場合、現実感覚を喪失しているわけでは決してない。感覚として、現実が持つ幾重もの表層を剥ぎ取った後に残る、現実感覚の静かな粒子と一体となっている状態になることがある。
ここでは現実感覚を喪失しているわけではなく、現実感覚の根源と自らが一体となっている感覚なのだ。また、精神病の類は、心理的な不安やストレスなどによって引き起こされることがしばしばである。
自分自身を観察してみると、心理的な不安やストレスを感じることはほとんどない。世俗的な意味での不安やストレスを感じられるところにもはや自分はいないのである。
強いてあげるとするならば、目には見えない実存的な課題や超越的な課題には絶えずさらされているように思う。しかし、それらが何かしらの不安やストレスを自分にもたらしているとは到底考えられないのである。
このように考えてみると、症状としても深層的には精神病の類のものとは異なり、その原因についても異なることがわかる。 自己が自己を超えていき、自己に還ってくる感覚。さらには、自己に還ってくる感覚を超え、全てのものと一つになる感覚。
今自室に鳴り響く音は私であり、瀬戸内海も太陽も私に他ならないというこの感覚が、自己即世界というあり方を静かに映し出している。山口県光市:2017/12/30(土)10:12
No.594: Winter Wind
Wind with full of vital force blows even in winter.
It is a vivacious breeze that makes our heart dance.
Wind blows where it should be; like we are where we are in this world at this moment. Hikari, Yamaguchi, 10:52, Thursday, 1/4/2018