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1946. 宿命


気づけば今日は、一日中リストのピアノ曲を聞いていた。いつもはこの時間帯はすでに就寝しているが、今日はまだ文章をもう少しだけ書き留めておきたい。

先ほどの夕食中に父から話を聞くことによって、作曲に関してまた新たな方向性が見えてきた。それは以前から自分の心眼に捉えられていたものではあったが、父の言葉のおかげでそれがより明瞭なものになった。

私はここから一歩一歩進んでいくだろう。誰のために進むのか?それは自分のためでも他者のためでもない。人間のために進むのだ。

私がなす日々の表現行為や創作行為は、もはや自他のためではない。自他を含み、自他を超えた意味での人間のためになされていく。

自分のために行う表現行為や創作行為ほど独断的なものはなく、「他者のために」と述べる表現行為や創作行為ほど偽善的なものはない。私は、自分のためでも他者のためでもなく、それらを超越した、「人間」のために日々の行為に従事したい。 人は意味を構築することを絶えず宿命づけられている。これは発達理論の世界ではよく言われることである。

私は最近、人は意味のみならず、表現することや創作することを宿命づけられているのではないかと思うのだ。ちょうど先日、大学のキャンパスから自宅に向かって歩いて戻っている最中に、人々は絶えず自分固有の表現行為と創作行為に従事しながら生きている、ということをある種の啓示的気づきとして得た。

各人の表現行為と創作行為の種類と大小は異なっていて当然である。それらは一切問題にならない。重要なことは、私たちがそれらの行為に従事する宿命を背負っているということだ。

「宿命」という言葉の響きはやや重たいだろうか。そうかもしれない。だが、よくよく考えて欲しいことがある。

それは一人の人間の表現行為や創作行為の固有性を考えたとき、それはその人の人生と同様のものとみなすことができるのではないか、ということである。 何度も、何度も言いたいと思う。私たちの表現行為や創作行為は、私たち自身の固有の魂から生み出されるものなのだ。

魂から生み出されるものは、ある意味、生命の重さを必然的に宿す。そして、一つ一つの表現行為や創作行為は、そうした命がこの世界に通った証、つまり人生に他ならないのではないだろうか。

一人の人間の固有の人生と命に重さがあり、私たちは日々それを携えて毎日を真摯に生きようとしている。それを形容するのに、「宿命」という重い響きを持つ言葉がふさわしいように私には思える。

自発的でも強制的でもなく、表現行為や創作行為に私たちが従事するのは宿命なのだ。その宿命と自らの生命が一体となった時、私たちは表現行為や創作行為との一体化を果たすだろう。

その時、私たちは自分の人生を全うする道を真に歩き始める。山口県光市:2017/12/29(金)22:26

No.591: Personal but Universal Crucification

How possible to forgive someone who is beloved for me?

Whereas it is rather effortless to give mercy to that person in a superficial way, it is perplexing and invincible to forgive him or her in an authentic way.

I’m being crucified by a personal but universal issue. Hikari, Yamaguchi, 21:23, Wednesday, 1/3/2018

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