夕方を迎え、夕日に染まるフローニンゲンの空をぼんやりと眺めていた。薄いピンクのような、薄い紫のような空が、今目の前に広がっている。
空には一切の雲がなく、その代わりに、遥か上空に飛行機雲が幾筋も見える。今日は午前中から晴れ間が見え、夕方のこの瞬間は雲一つなく、絵葉書にしたいような鮮やかな初冬の夕焼けが広がっている。
米国にいた時も、日本にいた時も、このような色を発する夕日を見たことがなかったのではないかと思う。今、私はずっとこの夕焼けを眺めていたいという気持ちで満たされている。
明日からまた雨の日が続く。そうしたことを考えると、なおさら今この瞬間に広がる夕焼けが貴重なものに思えてくる。
なんとか自分の芯から言葉を絞り出し、この夕日の素晴らしさを表現しようと試みてみても、それは困難を極める。直接的な言葉でそれを表現することはできないのだ。
もしかすると、真の感動を引き起こすものは、直接的な言葉の形から滑り落ち、間接的に様々な言葉を当てていくことを通じて、かろうじて感動の全体像が浮かび上がってくるに過ぎないのかもしれないと思う。
遥か上空に見える飛行雲を背に、無数の鳥たちが空を舞う姿は圧巻である。ピンクがかった薄い紫色の夕焼けが、空を舞う鳥たちを優しく包む。 この夕日を眺めて歓喜しているのは、もしかすると私だけではなく、鳥たちもそうなのかもしれない。それほどまでに、多くの鳥たちが優雅な飛行を楽しんでいる。
フォーレやラヴェルの音楽が溢れてきそうな夕焼け。モネやルノワールの絵画が滲み出してきそうな夕焼けがそこにある。自然がもたらす一つの神秘的な情景に立ち止まり、それを心ゆくまで味わい尽くし、自然と自己が一つになるまでその瞬間に居続けることを許容・奨励するような生活。
そうした生活を日々送ることができること以上に幸福なことはあるだろうか。幸福とは常に、自己の内側と外側の接点にあるのだ。
重要なことは、それが両者の世界の接点にあることなのだと思う。外面主義に陥るのでもなく、内面主義に陥るのでもなく、二つの世界の接点に幸福の種が宿っている。 夕日の色が徐々に薄くなっていることに気づく。時刻は四時半に近づき、これから深い闇の世界に入る。
この夕日は、闇の世界に入る前の灯火の輝きだと言っていいかもしれない。いつまでもこの夕日を眺めていたいと思う。
しかし、この夕日もその役目を終えようとしている。一過性の中に内包された、儚さの向こう側にある感動。
そうした感動をもたらしてくれる夕日に対して、私は大いに感謝をする必要があるだろう。こうした感謝の念が明日を呼び、それは永遠への足がかりになるだろう。2017/11/22(水)16:28
No.459: Memoirs of My Being I realized the reason to engage in continuous creation of writings and musical works.
They are the records of my existence.
I keep a journal and compose music everyday.
All of my writings and musical works are the memoirs of my being. 16:50, Sunday, 12/3/2017