今日は午前中にいくつかの論文を読み、一つ大変感銘を受ける論文があった。それは、「創造学習」に関する論文である。
非常に短い分量の論文であったが、私がこれまで考えていたことを代弁してくれるような内容であった。偶然にも、来年客員研究員として所属しようと思っている大学でその論文の執筆者が研究活動を行っており、昼食前にその研究者へメールを送った。
主には、論文に対する感想と来年にその大学に所属することになった際の共同研究の可能性についてである。 教育哲学者のジョン・デューイが指摘しているように、教育の目的とは、単に学習者に学習習慣を獲得できるように支援することではない。むしろそれ以上に重要なのは、学習することの喜びを育んでいくことである、というデューイの主張は私の主張と同じである。
デューイは、実践を通じた学習の意義を提唱しているが、私はさらに、その論文で紹介されていたように、創造行為を通じた学習の意義を主張したい。人は確かに実践を通じて多くのことを学び、むしろ実践を通じてでなければ多くのことを学べないとさえ言えるだろう。
そうした観点において、デューイが提唱する実践学習とでも形容できる発想は非常に大事である。一方、学習することに伴う喜びという現象に着目した場合、単に実践に着目するだけでは、学習と学びに伴う喜びとの関係が見えづらいように思える。
そこで私が考えていたのは、まさに創造行為を通じた学習の意義であった。創造行為の表現物はどのようなものであってもいいと思う。
それは楽器の演奏でもいいだろうし、文章という形でもいいだろう。あるいは、方程式の立案というのも立派な創造行為の産物である。
創造行為を通じて得られた表現物がどのような形を持つにせよ、学習過程において、創造行為に従事する楽しさと喜びを涵養するような教育哲学とその方法があってしかるべきだと思う。
実際に日々私が研究活動や作曲実践に取り組んでいるのも、文章や曲という創造行為の産物を生み出す喜びや楽しさを実感しているからに他ならない。文章を執筆することにせよ、曲を作ることにせよ、冷静になって考えてみても、創造行為に伴う内在的な喜びと楽しさ以外のものは、それほどの重要性を持っていない。
学ぶことに伴う学習者の内在的な喜びや楽しさを涵養することは、子供の教育においても、成人教育においても極めて重要だろう。学びというのは苦行であってはならず、それは本質的に充実感や、究極的には生きる喜びのようなものを喚起するものだと考えている。
子供の教育においても、成人の教育においても、これほどまでにテクノロジーが進展しても、さらには教育研究によって多くのことが解明されつつある現代社会においても、未だにほとんどの学習者は、学びに伴う内在的な喜びと楽しさを味わえていないのではないかと危惧している。
そうした問題に取り組む一つの道を、この論文は示唆しているように思えた。そうしたこともあり、著者に連絡を取り、今後縁があって共同研究ができれば幸いだ。 創造学習というテーマを探究する際に、教育哲学や美学に関する発想の枠組みが要求されるかもしれない。「人は創りながら学び、創りながら発達する」というテーマを一つの重要な探究の柱にし、このテーマを探究する過程の中で、教育哲学や美学の領域を少しずつ開拓していこうと思う。2017/11/13(月)18:17
No.424: Record of My Finding for Music Composition From today, I will keep a journal for my experience of musical somatic resonance that occurs during my music composition.
This is an imperfect and in comprehensive memo, but it will be valuable sources for my theory building.
However trivial or even incorrect my finding is, I will keep a record of it.
I am very avaricious for building my own theories for music composition from scratch.
I will be able to see a gigantic system of my theories someday. 13:29, Sunday, 11/26/2017