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1571. 先生が伝えたかったこと


今日はいつもより多くの睡眠を取った。五時あたりに一度目を覚ましたが、そこから再び眠りにつくことにした。

目覚めてみると、辺りがほのかに明るくなっていた。昨夜は二つの印象的な夢を見た。

場所は米国であろうか、あるいは日本のような気もする。一つ言えるのは、その場所を取り巻く文化的雰囲気が、米国的でもあり日本的でもあったということだ。

夢の中で私は一台のバスに乗っていた。全席対面式になっており、右列と左列に座る人たちが向かい合う形のバスだった。

バスの乗客はすべて私の知り合いであり、小・中学校の顔見知りの友人だけで一杯となっている。私が座っていたのは、左列の真ん中の席であり、バスを降りるドアが右斜めに見える。

窓から景色を眺めると、バスは閑静な住宅街を走っているようだった。バスの中では、友人たちが楽しく会話をしている。

住宅街のある地域に差し掛かった時、一人の中年女性がバスに乗車した。その女性は、購入したばかりの大きな電化製品が包まれた箱を掲げていた。

バスの運転手に賃金を払う際に、その女性は大きな箱を床にドスンと置いた。その瞬間にその女性は、バスが既に乗客で一杯であることに仰天し、不満の顔を見せた。

すると突然、その女性が大きな声と共に英語で不満を述べ始めた。その女性は見た目は日本人であるが、彼女の英語の発音は日本語訛りが抜けつつある印象を持った。

実際に、バスに乗車している私以外の友人たちは、その女性が日本人のように見えながら、日本人ではない可能性が高いと思い始めているような雰囲気を発していた。しかしながら、私はすぐにその女性が日本人であることに気づいていた。

ほとんど日本語訛りが消えているとはいえ、音の流れに少し意識を向けてみると、やはり彼女の英語は日本人が話すそれだった。その女性は、重たそうな箱を抱えながら、私が座っているすぐ近くまでやってきた。

箱を置くや否や、バスが出発し、それと同時に、その女性は私の左横に座っている友人に突然話しかけた。

女性:「How can I stand for?」 とぶっきらぼうに女性はその一言だけを私の横に座る友人に投げかけた。 すると、友人はどぎまぎした様子を見せながらも、すぐさま返答をした。 友人:「Ye, Yes…」 その返答に女性は爆笑し、バスに乗車していたその他の男女の友人たちも一斉に笑い始めた。 友人の一人:「 “How”の質問に対して、 “Yes”はないやろ(笑)」 という声がどこからか聞こえた。確かに、私も友人の “Yes”という回答には笑いが出そうになったが、英語に不慣れな日本人であれば、そのような回答をするのもそれほどおかしなことではない。

バスに乗っているその他の友人も、実際には英語を話すことができないことを私は知っていた。友人の回答に対して、その女性は機嫌を取り直したのか、今度は私に質問をしてきた。

その瞬間、その女性の容姿が随分と変化していて気づかなかったが、横に座っている友人と共に中学時代にお世話になっていた英語の先生だということに気づいた。私は先生との久しぶりの再会に嬉しくなり、一気呵成に英語で話しかけた。

先生のみならず、バスに乗車していた友人たちが呆気にとられるほどに、私は怒涛のように英語で話し始めた。友人たちが驚いていたのは、私の人格が真逆に転換したかのように、饒舌に話し始めたことに対してである。

私が一気呵成に英語で先生に話しかけたのは、三つの理由があるように思えた。一つは、純粋に再会を喜び、その喜びが自然と溢れたからであった。

もう一つは、その女性が遥か昔にお世話になっていた英語の先生であるということに気づき、彼女が生粋の日本人であることに確信を持った時、「日本人が英語を話すのであれば、このように話せ」という主張を先生にぶつけるためであった。

しかもその主張を、喜びの感情の中に隠し、私の言葉を受けた先生だけがそれを自覚するというような、巧妙な意図が私の中にあった。別の表現で言えば、その主張の裏には、「私はあなたを今後も先生と呼び続けるが、私はもうあなたの生徒ではない」という意味を込めて、彼女に英語をぶつけていたのであった。

三つ目の理由は、人間には別の側面があるということを友人たちに伝えたかったということだろう。特に、精神が別の言語空間に移行すれば、全く別の人間になりうることが可能なのだ、ということを伝える意図があったようだった。

それら三つの理由が明確になったところで、一度目を覚ました。この夢が示唆していることはなんだろうか。

改めてこの夢を振り返ってみると、いろいろと興味深いことに気づかされる。最も関心を引くのは、中学時代にお世話になっていた英語の先生が友人に述べた “How can I stand for?”という質問だ。

そもそも、これはどういう意味なのだろうか?前後の文脈が一切ない中で、この文章の意味は何だと言えるだろうか。

誰しもすぐに思いつく意味は、直訳的なものとして「私はどのように表すか?」というものだろう。この直訳的な意味の裏に含まれるものは非常に面白い。

一般的に、 “stand for”は人を主語に取るよりも、事物を主語に取ることが多いように思う。そこをあえて、主語を人にし、その先生が何を象徴しているかというよりも、どのように象徴しているのか、ということをその友人に問いかけているようだった。

この夢が私の夢である以上、友人に対する問いかけは、私に対する問いかけでもあった。「私はどのように象徴しているか?」という問いかけに対して、自分であれば何と答えるだろうか。

とっさに出てきた言葉は、「権威が惨めな形で表れている」「権威が無能な形で表れている」というものだった。これは直感的なものであり、無意識から出てきた言葉だが、そうした自分の言葉の裏には、やはり権威に対する根深い嫌悪感があるようだ。

より正確には、無能さを隠蔽しながら権威を振る舞う人物への強い反抗心から、それらの言葉が生まれているような気がしてならない。この主題は、これまでの夢にも再々現れている。

昨夜の夢も、この主題に関係するものだったのだろう。もう一つ、先生の言葉を別の形で解釈することが可能だと思った。

“How can I stand for?”という表現を、「私はどのように耐えることができるか?」と解釈するものだ。

これまで六年間ほど英語空間で生きてきた中で、 “stand for”という表現を「耐える」という形で使われているのを見たことはないが、先生の言葉の余韻を考えると、 “How can I stand for? I can’t do it.”という反語形式で解釈することができるかもしれない。

つまり、「私はどうやったら耐えることができるだろうか?いや、耐えることなどできないだろう」という意味で解釈してみるという見方だ。ここでも目的語が欠落しているため、何に耐えるのかは明確ではない。

もしかすると、自分自身に耐えられるかどうかを示唆しているのではないだろうか、と思わされた。「私たちは自分という存在にどのように耐えることができるのか?」という問いであれば、それは実に深い問いだと思う。

合わせて、最初の解釈の目的語を「自己」にしてみると、「私たちはどのように自己を表現することができるだろうか?」という問いになる。この問いもまた、非常に重たい意味を持つものだと私は思う。

この現代社会において、多くの人々は自己を見つけることなどできず、自己を表現することもできない。さらには、自己を見つけたとしても、その重みに耐えられることもできない。

自己を見つけ、自己を表現し、自己の重みを受け止めながら生きるということは、とても難しいことなのだ。このような現代社会においては、なお一層それらは難しいことだと思う。2017/9/22(金)08:41

No.217: From Pastiches to Unique Music I finished morning reading, so I will start music composition for one hour.

To compose simple pieces of music is the first step to create complex ones.

Imitating great masterpieces would be an inevitable learning step. An infinite number of pastiches would enable me to create my unique music.

Until then, I will not forget persistence and diligence with full of enjoyment. 09:46, Saturday, 9/23/2017

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