限りある早朝の青空を有り難く拝む。今はまだ雨が降っておらず、白く分厚い雲が見えながらも、空は晴れている。
ぼんやりと書斎の窓の外に広がる空を眺めていると、そういえば、昨日の夕食時に不思議な体験をしたことを思い出した。これは時々自分に起こる体験なのだが、食卓の窓から風に揺れる木々を眺めていた時、瞬刻瞬刻の無限な多様性に気づくという体験をした。
より厳密には、それは単なる気づきではない。瞬間瞬間に生起する、二度と同じ姿を見せない無数の現象を知覚した時、それと同一化するという体験だ。
つまり、瞬刻瞬刻の無限な多様性に気づくというよりも、自分がそれになるという体験なのだ。時間など流れず、流れるのは絶えず千変万化する無数の現象だけなのだ。
その無数の現象と自己が完全に同一化するという不思議な体験を昨日した。この体験についてもう少し考えてみると、瞬間瞬間に絶えず生み出される無数の現象と自己との不可分性に気づく。
自己とは、それらの無数に生起する現象を観察する者ではないのだ。確かに、瞬刻瞬刻に生起する無数の現象に気づく自己は必ずどこかで立ち現れる。
しかし、それを超えた先があるのだ。それこそがまさに、それらの千変万化する無数の現象との完全な合一なのではないだろうか。
もしくは、絶え間なく変化する種々の現象を生み出す基底世界を見出し、自己がその世界に落ち着くというよりも、その世界そのものになるのだ。つまり自己は、無数に創造される現象を目撃することを超えていく時、無数の現象を生み出す世界そのものの中に溶解し、その世界と完全に合一を果たすのである。
この表現は、昨日の夕食時の体験を見事に言い表している実感がある。自己という存在は、存在を生み出す基底から生み出された存在であるというよりも、その基底に他ならないという確かな感覚が、一夜明けた早朝の今もまだ残っている。 早朝の輝く朝日が、目の前の木々を照らしている。少しばかり強い風に木々の葉が揺れている。
輝く太陽や、辺りを吹き抜ける風、そして木々の存在に気付き、それらが刻一刻と変化を遂げていることに気づいた瞬間、自分がそれらであるということに気づけなければ、この現象世界の本質を掴み損ねている。
それはこの世界を盲目的に生きていることに等しい。また、瞬間瞬間に変化する現象に気付き、それらが自分であるという気づきの段階に留まっていることもまた、道半ばである。
そうした気づきそのものが溶解しなければならない。気づきを生起させる世界の基底に触れなければならない。
そして、自己がそうした気づきを生み出す基底に他ならないことを掴まななければならない。実際には、それは掴まれるようなものではなく、獲得されるようなものでもなく、常に絶えず今この瞬間にあるものなのだ。
もはや、それについて言葉をいくら紡ぎ出しても無駄であろう。なぜなら、それは言葉が不可避に持つ二元性を超えたところにあるものであり、言葉によって生み出される境界線を超えたところにあるからだ。2017/9/14(木)
No.189: Our Preposterous and Futile Endeavor Most people try to seek for their authentic self. Most people try to look for themselves.
It is unfortunate that they are completely missing the point. Who can open an open door? How can our right foot kick itself?
It is impossible to open an open door because——needless to say——it is already open. It is asinine to encourage our right foot to kick itself.
However, most people in this modern society make that kind of mistake.
As long as we continue to engage in such a futile endeavor, we will never find ourselves, which means that we will never be emancipated and liberated. Sunday, 9/17/2017