そよそよと優しい風が、夕暮れのフローニンゲンの街を通り抜けていく。
「あなたの人生の主題は何ですか?ええ、自分だけの主題です。この世界にたった一つのあなただけの人生の主題は何でしょうか?」と問われたら、何と答えるだろうか。
「それは・・・わかりません」と私なら答えてしまうかもしれない。だが、今日改めて、人や社会が発達するというテーマが自分にとってどれほど大きな意味を持つものなのかを教えられた。
人や社会の発達について考えるだけで言葉を失ってしまう時があるのだ。それについて考えるだけで思考が消え失せ、涙しか流れない時があるのだ。
これは一体何を示唆する現象なのだろうか。人や社会の発達というテーマに思考の矢を真剣に向けた時、その矢が一瞬にして折れ、自分がただ涙を流しながら震えていることがよくある。
今日もそれに見舞われた。ここ最近私は頻繁に、この現代社会を取り巻く集合的な影と自分が切っても切り離せない関係にあることに気づく。
たった一人の力では、その治癒も変容もなし得ぬことを承知しながら、その影の中に入っていく自分がいるのだ。自己の存在を一瞬にして飲み込むような、ドロドロとした巨大な影に向かっていく自分は何をしようとしているのだろうか。
何もできないとわかりながら、なぜそこに入っていくのだろうか。影の世界からこちらの世界に戻ってきた時、つかの間の時間が再び動き出す。
だが、私たちが意識しないところに私たちの背中があるように、その影は常に私の後ろにいる。人や社会の発達というテーマと表裏をなしているのは、人や社会の影なのだ。
私たちが現代社会の影を治癒し、変容を遂げていくためには何が必要なのだろうか。影の治癒で最も重要なことは、影を切り離すことではなく、影に光を当て、光の中でその影を再所有することだと考えられている。
また、発達という現象が今は姿を見せぬ形なきものに向かっていく運動であるならば、社会の変容に必要なことは、未だ形のなきものを社会に投げかけていくことなのかもしれない。 私たち一人一人が異なった声を持つのはなぜなのだろうか。なぜ、この世界には一つとして同じ声がないのだろうか。
声。それは身体から発せられる声であり、心から発せられる声の両方を指す。
普段、人は誰しも、自分の身体から声を発する。だが、この現代社会のほとんどの人が、自分の心の声を発しないのはなぜなのだろか。
心の声をこの世界に表明することがいかに難しいかは知っている。しかし、そもそもなぜ私たちには各人固有の心の声が備わっているのかを考えてみる必要はないだろうか?
各人固有の声があるのは、それがこの世界に発せられるためにあるのではないだろうか。社会の影に光を当て、未だ形のなきものを社会に投げかけていくことにつながるのであれば、私は自分の声を発したいと思う。
自分の声があの巨大な影に何度かき消されようが関係ない。何度でも叫びたいし、それが他の誰かの声を呼ぶことになりはしないだろうか。2017/9/10(日)
No.176: My Daily Life As Eternity It is tremendously cold today. Even though it is still the middle of September, I turned on the switch of a heater in my room.
Hot coffee is my best friend in this season, although I had drunk it everyday even in summer.
My daily life is passing by with fulness and happiness regardless of whether it is cold or not.
A better expression might be that my daily life is not passing by but existing as eternity. Thursday, 9/14/2017