紫色や黄色、そして赤色の野花が咲く山道を列車がゆっくりと進んで行く。左手には美しい湖が見え、その湖を森林に次ぐ森林が優しく抱きかかえている。
いや、ここには抱擁するものとされるものという二元論的な関係はなく、二つがあって一つの景観を生み出しているのだ。湖の湖面に朝の太陽光が反射し、湖も森林も、太陽も野花を含め、それら全てが息を飲むほど雄大な一つの景色を生み出している。
何という雄大な景色だろうか。できることならこの雄大な景色の中に溶け出し、この絶景の全体の部分として自分も加わりたいと思った。
この壮大な景色を眺める以外にすることが見当たらないかのように、私は目の前に広がる景色に釘付けであった。自分が景色と一体となり、再び景色から分離したとき、時計の針が幾分進んでいることがわかった。
そこで私は、この雄大な景色の部分として加わる願いが成就されたと思った。いや、この景色を構成する部分になれただけではなく、私も目の前に広がる景色全体に他ならないのだと思った。
さらに、そもそも私は、この雄大な景色といついかなる時でも本質的に一つだということに気づいたのである。景色と自分という境界線を引くのは、この私に他ならない。
その境界線を書き換えることができれば、あるいはそれを取り払うことができれば、私はいつもこの景色に他ならないのだ。思考と言葉による境界線構築運動を少し止めてみる。
認知世界に張り巡らされた境界線の網の目を解きほぐし、目の前の自然の中に完全に自己を溶け込ませてみる。この景色の中にずっといたいという感覚。
この自然の中にずっといたいという感覚に満たされる。すると、この感覚はここ数日間に何度か体験したものと同じだと思った。
それは、自分の魂と共鳴する絵画作品を前にした時の感覚だ。一つの絵画作品に存在を鷲掴みにされ、作品の前でただ立ち尽くし、全てを明け渡すあの感覚。
作品の中にずっと留まっておきたいというあの感覚と全く同じなのだ。自然の中ではなく、絵画の中でもなく、自然と絵画と完全なまでに同一化する感覚と言った方が正確だろう。
とにかく自分の全てを手放し、全てからの解放を通じてそれと一体になるのだ。そこで初めて、私たちは自己の本質である自らの魂を見出すだろう。
いかに自分が自らの魂と切り離された形で日常生活を営んでいたかに気づかされる。普段私たちがいかに自然から分離され、自らの魂と分離した状態で生きているかに気づかされる。
多くのことはいらないし、難しいことはいらない。境界線を引こうとする衝動を緩め、ただ心を落ち着かせて全てを手放し、その瞬間のその場に全てを委ねてみるのだ。指示はそれだけである。
エマーソンの思索的エッセイもムンクの絵画も、究極的にはその指示を通して同じことを伝えようとしているに違いない。幸福に至る道はそれほどまでにシンプルなのだ。2017/8/12(土)
No.71: A Tentative Plan for Diary-Like Composition Yesterday, I came up with a new idea about how to compose music.
I will make every endeavor to enable my music to capture and represent the nuances of my thoughts and feelings. The first step would be to let my music distinguish a subtle difference between various adjectives with the same meaning such as joy, jubilation, exultation, exhilaration, ebullience, elation, and so on.
I will never forget to give each piece of music a name and creation date. After I create at least 10,000 measures, I can see my progress to express my inner phenomena as music. Sunday, 8/20/2017