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1395. フォボスとタナトス、言葉と発達


八月に入ったが、相変わらず涼しい日々が続く。書斎の窓を開けていると寒いぐらいなので、換気のために窓を開けることはあっても、基本的には窓を閉めたまま部屋の中で過ごすことが多い。

実際に今は窓を閉めており、部屋の中では薄手の上着を羽織っている。昨年の今頃はフローニンゲンでの生活を始めた頃であったが、その時はもう少し夏らしさを感じていたように思う。

過ごしやすいといえば過ごしやすい気候なのだが、日本の夏の印象と感覚が依然として心身の中に残っているため、今のこの気候はやはり少し違和感をもたらす。早朝に現れていたうろこ雲が変化を遂げ、のっぺりした柔らかそうな灰色の雲が空全体を覆っている。

昼食後、その雲から細かな雨がパラパラと降り始めた。今日の午前中は、オンラインゼミナールの第三回のクラスがあった。本日のクラスも、私にとって実に多くの気づきと発見をもたらしてくれるものだった。

普段東京から参加している受講者のある方が、今日は宮城県の地方から参加をしてくださり、話をする背後にセミの鳴き声が聞こえてきたことが強く印象に残っている。セミの甲高い鳴き声を聞いた時、日本の夏の心象風景が甦ってきたのである。

実際にその場にいなくても、この時期の日本の夏の様子を感じ取ることができたことは、懐かしさとともに喜びの感情をもたらしてくれた。 本日のクラスの内容について印象に残っていることは二つある。一つは、以前の日記で書き留めていたように、領域を問わず、人や組織の成長を考える際に、フォボス的な発想かタナトス的な発想で成長を捉えてしまいがちな傾向がこの現代社会には見られるという点である。

フォボス的な発想というのは、常に上へ上への成長を希求し、自らが通ってきた過去の発達段階を否定するような考え方を言う。言い換えると、フォボス的な発想を持つ人は、低次の発達段階の価値を認めず、絶えず成長することを善とする。

一方、タナトス的な発想というのは、高次元の発達段階を排斥する形で、低次元の発達段階を守ろうとするような考え方を指す。別の表現で言えば、タナトス的な発想を持つ人は、高次元の発達段階の価値を認めないがゆえに、低次元の発達段階で停滞してしまう傾向を持つ。

現代社会には、この二つの発想のどちらか一方を持つ人が多く、二つの発想の闘争状態にあるのが現代の課題の一つだろう。教育や企業社会において、フォボス的な発想を持つといのは、子供や成人の成長を無理に引き上げようとする試みと結びついているだろう。

また、タナトス的な発想は、霊性を涵養する妨げとなってしまうだろう。実際に、現代の教育や企業社会において、霊性が真剣に取り扱われることはなく、むしろそれは忌避されるものとなっており、人間が人間として生きていくために極めて重要な霊性を涵養する機会がほとんど無いということは、非常に嘆かわしい。 受講生の方からのコメントでもあったが、フォボス的な発想というのは男性性のシャドーの現れであり、タナトス的な発想は女性性のシャドーの現れであると見ることもできるだろう。この視点は非常に興味深い。

私たちは本来、男性であっても自己の内側に女性性を宿しており、女性であっても男性性を宿している。私たちが真に成熟を遂げていくためには、自己の中にある対極側の性を発見し、それを排斥することなく己の中に統合していく必要がある。

それをしなければ、上記のような極端な発想で成長というものを捉えることになってしまうだろう。そしてそれは、成長を捉えるのみならず、成長をどのように育んでいくかにも密接に関わっているのだ。 もう一つ印象に残っている点を書き留めておくと、それは言葉と発達の関係である。レクティカの設立者であるセオ・ドーソンが今から20年ほど前に行った研究で面白いものがある。

それは、言葉と発達の相関関係についてである。その研究では、特定領域における会話事例をフィッシャーのレベル尺度で分析し、分析結果である発達段階とそこで用いられている語彙の難易度を比較することが目的だった。

オックスフォード辞典の中に掲載されている語彙を出現頻度で分類し、語彙の難易度を明らかにした上で、調査に用いた会話事例を再度検証してみると、語彙のレベルとその領域における能力レベルには強い相関関係があることがわかったのだ。

この研究結果を見たとき、特定の領域における知識と経験を獲得する中で、それらに形を与える言葉を獲得していくことの重要性を考えさせられたことをふと思い出した。 本日のクラスでは、その他にも改めて考えてみる必要のある項目がいくつかあったので、また別の機会に書き留めておきたい。2017/8/5(土)

No.40:Presence=Pre-essence Edvard Munch insisted that the presence of motif was a key for painting. What I felt from his paintings was exactly what he proposed.

I suddenly realized that the presence of his any motif embodied its essence. This realization led me to another recognition that presence is prerequisite for the essential aspect of existence.

In other words, presence intrinsically envelops the essence of any being. Therefore, the “presence” may be equal to “pre-essence.” Friday, 8/11/2017

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