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1333. あぁそれが


柔らかなバッハの音楽が薄紫色の優しい空気の中を駆け足で駆け抜けていく。夕方の仕事を終え、少し一息つくためにソファに腰掛けた時、そのようなことを思った。

夕方の仕事に取り掛かりながらも、どこか自分の内側に文章を書き足りない感じが漂っていた。外に出すべきものは外に出さなければならない。

それは身体と精神を正常に働かせる上で非常に大事な行為である。とりわけ、自分の内側の感覚が言葉として外に表出したがっている時には、なおさらその自発的な運動を促してあげなければならない。

それを抑圧しては決してならないのだ。どこか文章を書き足り感じを抱きながら、先ほどの私は夕方の仕事に取りかかっていた。

そのような時は決まって、専門書や論文に描かれている文言が頭に入ってこない。それは当然だ。

なぜなら、自分の内側は何かを取り入れることを待っているのではなく、何かを外に表現することを待っているからだ。この当たり前の事実に、最近私はようやく自覚的になりつつある。

だが、先ほどの自分は書き足りない感じが自分の内側を満たしていながらも、何を書き足りないのかが一切わからないような暗中模索の状態にあった。そのような状態では、専門書や論文の内容が一切頭に入ってこないので全くらちがあかなかった。

自分の内側の感覚はどのような言葉として外側に生まれ出てこようとしているのかを静かに待つことにした。一本の木にとまるセミをそっと捕まえようとするように、私は静かに待っていた。

すると私は、過去の日本人の一体誰が、「そよ風」や「黄昏時」、「愛」や「喜び」という言葉を生み出したのか、という考えに心を鷲掴みにされた。書斎の窓から見える外の世界を過ぎ去っていく「それ」が「風」という名が与えられ、「風」という言葉の頭に「そよ」が付き、「そよ風」なる言葉が生み出されたそのことに、たまらない感謝の念を持った。

それが「そよ風」という名前であること、そしてそよ風と呼ばれるものが「このように」自分の内側で感じられることが、一つの奇跡だと思えた。一体誰が、このような素晴らしい言葉を生み出したのだろうか。

「そよ風」という言葉は、その言葉の外形に収まらない、はち切れんばかりの感覚質を私の内面世界にもたらしてくれた。この感謝の念、そして自分の内側に充満する否定することのできない感覚質は、「黄昏時」「愛」「喜び」といった言葉にも当てはまることであった。

私が一つの言葉や概念を心底大切にしたいと思うのは、こういうことなのだ。言葉や概念は決して冷たいものでも死物と化したものではない。むしろ全く逆なのだ。

言葉や概念は、これほどまでに暖かく、生き生きとした生命力を持っているのだ。一匹の小さな蜘蛛が書斎の地面を這っているのが見えた。

「また来たね」と私は思わず言葉を漏らした。柔らかいキッチンペーパーを食卓から取り出し、その上にその蜘蛛をそっと乗せた。そして、その蜘蛛を外に逃がした。

一匹の小さな虫。その虫が持つ一つの命。たった一つの言葉や概念。その言葉や概念が持つ一つの生命力。

一つの生き物を無配慮に殺生することが全く許せないのと同様に、一つの言葉や概念をないがしろにすることは、私には許し難いことである。一つの生き物の命や一つの言葉や概念が持つ生命力に気づかない現代人。

生きているということ以上に何か大切なことはあるのだろうか?生きているものを愛せない者に一体何が愛せるというのだろうか?

「燦然」と「輝く」「黄昏時」の「太陽」が、この「世界」を「優しく」「包んでいる」。それは一つの「奇跡」であり、それは「生きている」ことを「強く」「実感」させるものだった。

最後に私はもう一度、それらの言葉を生み出した日本人に多大な感謝の念を持った。2017/7/22(土)

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